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< お米 > お米の品種・銘柄 古代米-赤米 その2.

2023-10-24 08:36:40 | お米

 日本における歴史

 紀元前に日本に伝来した際、米には白米と赤米とがあったが、赤米は白米によって次第に淘汰されていったと考えられている[1]。伝来した赤米には、より古く伝えられた日本型と、新しく伝えられたインド型とがあ。日本型は低温に強く、インド型は低温に弱いという特徴がある。

 日本の赤米に関する最古の記録は、飛鳥京跡苑地遺構から出土した木簡にある赤米の納品の記述である。藤原京や平城京の遺跡からも木簡が出土しており、そこには赤米、赤搗米、赤春米といった言葉が書かれている。後者の木簡からは、7世紀末から8世紀後半にかけて赤米が丹波、丹後、但馬などから藤原京や平城京へ貢物として輸送されていた[32]ことや、酒の材料として用いられていたことなどがわかる。正倉院文書の『大倭国正税帳』『尾張国正税帳』にも地方から赤米が納められた記述がある。

 11世紀後半から14世紀にかけて「大唐米」、「唐法師」、「秈」などと呼ばれるインド型の赤米が日本にもたらされた。室町時代中期の禅僧・江西龍派が杜甫の漢詩を講義した内容を聴衆が書き留めたノート『杜詩続翠抄』(建仁寺両足院蔵)では、赤米が九州で多く栽培されていると記されている。江戸時代には農書を初めとして赤米の栽培や流通に関する多くの記録が残っている。厳しい気候条件に強く、排水不良の土地でも良く育つことから、低湿地や高冷地で盛んに栽培され、新田開発にも重宝されていたと考えられる。近年の例だと、明治期に石狩平野の泥炭地を開発する際に青森から赤米品種の「赤室」が持ち込まれている。しかし赤米は基本的に下等米として記述されており、下級階層の人々の食べるものとみなされていた。中世の年貢算用状には赤米で年貢を払った記述が散見するが、領主側からすれば赤米は年貢米としての価値は低かった。また、江戸時代の藩の中には価格の安い赤米での年貢納入を禁じているところもあった。

 赤米は次第に作付されなくなり、雑草化した。明治以後、赤米は圃場の米の等級を下げる下等米として全国的に撲滅が行われ、昭和末までには通常の水田で赤米が栽培されることはほぼなくなった。しかし、戦後においても、赤米が圃場に混入する事例が時折みられており、特に1960年代以降長野県で繁殖を続けている「トウコン」は駆除活動が続けられているが、いまだ根絶に至っていない。一方で平成に入ると多様な形質の米に関する消費者の興味が高まり、1989年以降進められた農林水産省によるプロジェクト研究「スーパーライス計画」により赤米も品種改良が進んだ。

 赤米や黒米に「古代米」という名称を冠して「古代人が食べていた栄養豊富な米」という宣伝がなされるに至り、赤米は俄然注目を浴び、現在では各地で栽培が行われるようになり作付面積は年々増加している。「古代ロマン」と結び付けられて宣伝される例が少なくなく、吉野ヶ里町、旧須佐町のように遺跡や神話と結び付けて栽培している町のほか、旧弥栄町のように赤米に関する文献が残っていたことを売り文句に栽培している町、また南種子町のように赤米の栽培が残存していたことを売り文句として「たねがしま赤米館」なる施設まで作って宣伝している町もある。

 旧弥栄町における赤米の復興

 弥栄町で再興した系統の赤米
 1959年(昭和34年)から進められていた国による平城京跡の発掘調査で、1965年(昭和40年)4月に平城京北東部にある造酒司の井戸の排水溝より『丹後国竹野郡芋野婇部古与曽赤舂米五斗』と書かれた木簡が発掘された。木簡には弥栄町芋野から精米をした赤米を五斗平城京へ納めたということが記されている。この木簡の複製が1975年(昭和50年)京都府立丹後郷土資料館で展示された。この展示を観覧した同町在住の郷土史家・芦田行雄が興味を持ち、赤米の栽培を復活させようと活動を始めた。1981年(昭和56年)芦田氏は岡山県総社市の国司神社で赤米を使った神事が受け継がれていることを知り、神社より赤米の種籾を分けてもらい、翌年1アールの田んぼを借り栽培を始める。その後赤米の収穫に成功し、赤米栽培についてのコラムが新聞で報道されると千葉、愛知、福井、奈良、登呂遺跡など全国各地から「種籾を分けてほしい」と連絡が来るようになり、赤米の栽培が各地に広まるきっかけとなった。また、芦田氏は赤米の普及と研究を目的とする「あかごめ学校」を主催し、2010年(平成22年)10月に奈良市東大寺で行われた光明皇后1250年遠忌法要に同団体が古代米として赤米を献上した。芦田氏の引退・死後は地元住民による芋野郷赤米保存会が設立され、赤米や黒米などの古代米を継承する活動を続けている。

 神事における赤米
 前述のように日本では明治以降、赤米が全国的な撲滅の対象となった。そうした状況の中、3つの神社で神事用に赤米が栽培され続けた。長崎県対馬市の多久頭魂神社、岡山県総社市の国司神社、鹿児島県種子島の宝満神社である。

 多久頭魂神社
 多久頭魂神社では、寺田と呼ばれる水田で赤米が栽培され、神事に用いられている。赤米にまつわる神事は1年間で13にも及ぶ。
 国司神社
 総社市新本には2箇所に国司神社(新庄国司神社・本庄国司神社)があり、それぞれが赤米を栽培している。栽培された赤米(神饌米)は岡山県の重要無形文化財に指定されている。
 宝満神社
 宝満神社では、御畔と呼ばれる水田で赤米が栽培され、神事に用いられている。その歴史は2000年に及ぶともされている。宝満神社で栽培されている赤米は芒が白いという特徴を持つ。日本型赤米と考えられているが、ジャポニカ米とする説もある。
 恋ヶ窪熊野神社 (他国分寺市内の神社)
 恋ヶ窪熊野神社では、市民活動により栽培された赤米が、神事に用いられている。東京都国分寺市の東恋ヶ窪で発見された野生的な赤米。超早稲種である。市民活動には、国分寺赤米会、赤米セミナーレ、国分寺時赤米プロジェクトなどがある。

*Wikipedia より


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