「鵲 かささぎ」
カササギ(鵲、Pica pica)は、鳥綱スズメ目カラス科に分類される鳥類。近年はP. picaから、P. asirensis・P. bottanensis・P. mauritanica・P. sericaを分割する説が提唱されている。
日本
古代
古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったと考えられる。「魏志倭人伝」も「日本にはカササギがいない」と記述している。
しかし、七夕の架け橋を作る伝説の鳥として、カササギの存在は日本に知られることとなった。奈良時代の歌人大伴家持は七夕伝説に取材した下記の歌でカササギを歌っている。(『新古今和歌集』・『小倉百人一首』に収載)
鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける
七夕のカササギの伝承は日本では「サギと付くからサギの仲間だろう」と思われたため、カササギではなくサギで代用されている。
現代では「鵲」は鳥類のカササギを指す文字として使用されているが、古代における「鵲」の意味と読みは特定されていない。例えば『日本書紀』には、飛鳥時代の推古天皇6年(598年)、聖徳太子の使者として新羅に渡った吉士盤金(きしのいわかね)が2羽の「鵲」を持ち帰り献上、難波の杜(大阪市にある鵲森宮や生國魂神社などが比定地)で飼ったという記述がある。この日本書紀の「鵲」には万葉仮名が振られておらず、「かささぎ」という読みが初めて登場するのは平安時代中期の『和名類聚抄』である。
江戸時代以降
現在日本に生息するカササギは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、肥前国の佐賀藩主鍋島直茂、筑後国(現福岡県)の柳川藩主立花宗茂など九州の大名らが朝鮮半島から日本に持ち帰り繁殖したものだとされる説がある[2]が、持ち帰りに関して記録した文献が無く、真相は不明である。一方、佐賀・柳川両藩では主に17世紀に入ってから、地誌や産物帳などに目撃例や生息地、生態に関する記録がみられるようになる。江戸時代には「朝鮮がらす」「高麗がらす」「とうがらす」の別称があり、当時の生息範囲は柳河藩と佐賀藩の周辺の非常に狭い地域に限られていた。また、佐賀藩では狩猟禁止令により保護されていた。また、佐賀県では県民からの一般公募により、1965年(昭和40年)に県鳥とされたほか、陸上自衛隊目達原駐屯地のシンボルマークにもあしらわれている[24]。また、先述のとおり佐賀県の生息域は国の天然記念物に指定されている。
その一方で、冬には朝鮮半島から対馬に渡ってくる個体があるほか、ミヤマガラスの大群にカササギが混じっていることがあるという観察結果から、渡ってきたカササギが局地的に定着したという意見もある。
中国
七夕伝説における織姫と彦星の間をつなぐ掛け橋の役を担う鳥として、親しまれている。なお、現代中国語では「喜鵲」と表記する。
*Wikipedia より
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