大正末期から昭和初期にかけての日本には、二つの通信社が覇を競っていました。
・ 明治34年(1901)に、光永星郎氏が創業した、日本電報通信社
・ 大正5年(1926)に、岩永祐吉氏が設立した、新聞聯合社
これから共同通信社の歴史に入り、調べた情報をそのまま転記いたします。
・昭和6年(1931)の満州事変後、陸軍省、海軍省、外務省の情報担当者による、会議が行われた。
・情報通信の一元化による統制を行うため、電通と聯合の合併が計画された。」
・電通には承服でない話で、多くの地方紙も反対したが、新会社「同盟通信社」の設立は進められた。
・昭和7年 ( 1932 ) 12月、里見甫 (はじめ) により、満州に電通と聯合の通信網を統合した、国策会社「満州国通信社」が設立された。
・同社は後に、同盟通信社の姉妹組織となる。
説明なしに突然現れた里見氏の経歴を調べますと、次のように書かれています。
「ジャーナリスト、実業家。」「関東軍と共にアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。」「中国名は李鳴」
これだけでも胡散臭い気分になりますが、は次の通りです。
甘粕正彦 ・・里見と共に、〈陰の満州国建国の立役者〉とされている
蒋介石 ・・汪兆銘同様に、里見から阿片資金を貰い受けたとされている
東条英機 ・・大連にいた里見が、東条の長男英隆を預かっていたとされる
影佐禎昭 ・・陸軍中将、特務機関員
楠本実隆 ・・陸軍少将、特務機関員
まだありますが、省略します。陸軍、海軍、外務省の役人以外に、特務機関や、里見氏人物が、電通と聯合の合併に参加していたと、この事実を紹介するにとどめます。
やはり日本はとんでもない国だったと、早とちりをしてはいけません。世界的な通信社はどこの国でも同じことをしていると、ここを忘れないことが肝心です。「日本だけが、悪い国だ。」と思いこむのは、反日左翼の政治家や活動家だけにしておきましょう。
・昭和10年 ( 1935 )の11月、電通の承諾のないまま、同盟通信社の設立が、許可された。
・合併推進派は、小森七郎、正力松太郎、寺田四郎の3名を、光永の元に向かわせ説得したが、首を縦に振らなかった。
・昭和11年 ( 1936 )の1月、社団法人同盟通信社が、発足した。電通側の承諾のないままの見切り発車だった。
・この時点では、聯合が社名を変更したに過ぎなかった。
・同年3月9日に広田内閣で、逓信大臣に就任した瀬母木桂吉は、かつての商売仇だった光永を呼び、政府裁定案の受諾を迫った。
・光永は案を呑み、契約書に調印した。
・電通は通信部門を同盟に譲渡し、広告代理部門を同盟の広告部と統合した。現在の広告専業としての電通の基礎が、こうして形成された。
現在の電通は通信業でなく、やはり広告専業社だったのです。さらりと書かれていますが、瀬母木氏と光永氏の関係は、浅からぬ因縁があります。電通が作られる以前、国内最大の会社だった国際通信社が、電通の果敢な攻めに敗れ消滅してしまいました。瀬母木氏は、この国際通信社の社長でした。江戸の仇を長崎で、ということでしょうか。
こうして同盟通信社は、国家代表の通信社として、東洋最大の通信社として、君臨します。しかし帝国と共に拡大した同社の命運は、帝国と共に尽きることとなります。
同盟通信社は国家代表の通信社ですから、大東亜戦争で日本が破れますと運命を共にします。初めて知るもう一つの日本史です。
次回は、同盟通信社の戦後を辿ってみます。