上畑沢の延命地蔵堂にある石仏「湯殿山・象頭山」から41年後の嘉永5年(西暦1852年 明治維新の16年前)、背炙り峠に畑沢村全体で再び巨大な湯殿山碑を建てました。このころは苗字使用に対する規制も弱くなっていたようで、畑沢のおもだった人の名前が苗字付きで彫られています。ところが、古瀬吉右衛門の名前がありません。これまで考察したとおりの重要人物なら、子や孫への代替わりがあったしても、当然、名前があるべきなのに、どこにも姿が見えなくなっています。石仏だけでなく、文献でもこの人物について書かれたものを一切、見たことがありません。畑沢で話を聞いても、「古瀬吉右衛門家は、途絶えた」と言います。天明大飢饉のころに忽然と現れて大事業を成功させ、さらにその後も続く凶作と天保の大飢饉(西暦1833~1839年)を切り抜け、文化八年に再び大石仏を建てる一大事業を成しながら、いつの間にか短期間のうちに姿を消してしまいました。畑沢歴史上のミステリーです。
もしかしたら、自分の代で古瀬吉右衛門家が終了することを自覚して、後世に名が残るように、無理を承知で大石仏を建てたのでしょうか。風化しにくい硬い流紋岩を使っています。確かに大石仏から202年も経った現在でも、私たちは「古瀬吉右衛門」の名を見ることができます。こんなことは、スビタレなら、とてもできないことです。