お経一の文字ずつを書き写した小石を地中に埋めて、その上に建てた塔です。したがいまして、その石が移動されていない限り、その下にはお経の文字が書かれている小石が大量に埋められていることになります。畑沢には二体見つかっています。二体とも「大乗妙典」の文字がありますので、法華経が書かれていることが分かります。法華経がどんな経でるかは、私は説明できません。
これは下畑沢にある熊野神社の南側にある石仏です。この下に文字が書かれている小石が出てくることは、畑沢の先輩たちも御存知でした。
この石仏の四面全部に文字が刻まれています。左右の側面には、法華経の一部も刻まれています。石材は凝灰岩なので、刻みやすかったこともあると思います。しかし、凝灰岩は風化が激しくて、文字が不鮮明になっています。私は「大恩教主釈迦牟尼部佛」と「願主 畑沢…」しか判読できず、それ以外の文字については尾花沢市教育委員会の専門家が判読したものを写させていただきました。
ところで、石仏の裏面には、年号に「宝」の文字があるようなないような感じですが、この時代に「宝」の文字は使わず「寶」のはずですから、「宝」ではないでしょう。もしも、「宝」であれば、宝暦年間の西暦1751~1764年ごろの江戸時代中期になるのですが、私の自由奔放な推理も限界です。
次に上畑沢の一字一石塔です。こちらは石材が凝灰岩ではなく、マグマが固まった硬い岩石が川の流れで角が取れた自然石で、畑沢以外で産したものを運んできたものです。運搬の都合もあるのでしょうか、この種の石材を畑沢で使うときは、あまり大きいものは用いられていません。硬い石材ですので、文字が鮮明に残っています。「大乗妙典一部一字一石一禮」「文政七年」を読み取ることができます。西暦1825年、今から188年前です。大河ドラマの「篤姫」が嫁いだ徳川家定が将軍に就いた年で、シーボルトが平戸にいたころです。
この種の石仏が下畑沢と上畑沢にはあるのに、中畑沢にはなかったのでしょうか。石仏そのものは見当たりませんが、小学生時代に幼友達数人で、中畑沢の稲荷神社の境内にあった杉の切株の下の土に右手を突っ込んで、石を取り出したような記憶があります。石仏の代わりに、元イタズラガキの手が証明します。
角ばった扁平の石に黒い文字が一つだけ書いてありました。ただ、気持ちが悪かったので、翌日に小学校の先生に訪ねたところ、「それは経塚と言って、鎌倉時代ごろにお経を一文字ずつ石に書いて埋めたものだ」と教えていただきました。当時はまだ何も石仏の調査が行われなかったにもかかわらず、即座に答えてもらいました。幅広い知識を持たれた先生でした。その先生は、畑沢に在住でした。お経が何であったかは、石仏がありませんので分かりませんが、普通は法華経のようです。