これは百万遍供養塔ですが、「遍」が「返」、「養」が「」になっています。漢字を間違っているように見えますが、これでも昔は堂々と通用していたのだそうです。「返」や「」は異体字という呼び方がされているようです。昔のことですから正しい漢字として定められたものがなく、いろんな文字が使われていたのでしょう。私も昔の時代に暮らしていれば、間違っても何にも気にすることもなかったでしょう。誤字、脱字、ついでに意味不明な文章が得意な私には羨ましい限りです。
さて、この石仏も私が見つけたものではなく、尾花沢市教育委員会の専門家から教えていただいたものです。中畑沢の墓地の中にあります。この墓地には、墓石とは別に石仏がぽつぽつ見られます。先に紹介した如意輪観音の一体もこの百万遍供養塔と同じ一画にあります。これらの石仏は、〇〇家近くにあるところを見ると、この家で守ってきたとものと思います。中畑沢にある「青面金剛(三猿を含む。)」、「庚申塔」、「奉順西国三十三所・太神宮・金毘羅大権現」、「六面幢」は〇〇家が守ってきたと聞いておりますので、中畑沢の石仏は総て〇〇家が守ってきたことになります。〇〇家は、上畑沢延命地蔵堂脇の巨大な「湯殿山・象頭山碑」の世話人として第二番目に名前が掲げられており、「奉順西国三十三所・太神宮・金毘羅大権現」には筆頭の主催者になっているようです。中畑沢の重要な役割を担ってきた家かと思います。
百万遍(ひゃくまんべん)とは、参考資料によりますと、大勢の人が車座になって、大きな数珠を送りながら、念仏を百万遍唱えることだそうです。一人で百万遍でなく、人数を乗じて数えるようです。大変に合理的です。
話が変わりますが、平成の初めごろにあるお宅の葬儀の翌日から何日間、夜に人が集まって、何回も「数珠回し」をしたことがあります。宗派は曹洞宗でした。ところが、この石仏の施主は「大戸惣四郎」と「大戸△△」となっていますので、果たして石仏で供養している念仏の宗派が曹洞宗であったのかが疑問になってきました。と言いますのは、畑沢での「大戸」姓は浄土真宗が多いからです。浄土真宗では、所謂、数珠回しはいたしませんでした。浄土真宗での念仏は、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけです。果たしてどちらの形態による念仏であったのでしょうか。今後の課題です。
次に施主について考察します。施主の1人である大戸惣四郎は、「奉順西国三十三所・太神宮・金毘羅大権現」にも出てきている七兵衛とともに名を連ねている「惣四□」かもしれません。もしも同一人物だとすると、文化8年(1811年)と嘉永4年(1851年)に石仏を建てただけでなく、楯岡高校社会部の「郷土Ⅱ」に資料として掲載している「村方三役一覧」には、明治3年(1890年)の百姓代の1人になっていますので、かなりの長命で、しかも勢いのある人物だったことになります。なお、有路S氏の話によると、惣四郎は中畑沢にある不動尊と庚申塔を建てた人物だそうです。
施主は「大戸」姓を名乗っています。また、この百万遍供養塔の1年後の嘉永5年に建てられた背炙り古道の峠にある巨大な湯殿山碑には、総ての村人に姓がありました。明治維新の15年前ごろは、既に姓は常用されていたということでしょうか。
石材は、マグマが固まった硬い石が川の流れの中で角が丸くなったものです。畑沢では産出しません。畑沢産の凝灰岩の方が細工しやすいのに、どうして畑沢の石材を使わなかったのか、又は使えなかったのかは疑問の残るところです。