中畑沢に残された巡礼の供養塔を見つめて、こんな短い物語が浮かんできました。
今から数えて203年前の文化7年(西暦1810年)でした。天明の大飢饉を何とか乗り越えましたが、まだまだ凶作が続き村人は苦しい生活を続けています。畑沢の有力者である古瀬吉右衛門は、何とか村人を苦難から救うために、人生最後の大事業に執りかかりました。湯殿山と象頭山の霊験にすがるべく、これらの石仏を建てることにしました。石仏を建てるには、実際にそこへ参拝することが望ましいことです。吉右衛門は既に湯殿山へは何度か参拝したことがありますが、残念ながら象頭山へはまだ参拝したことがありません。しかし、吉右衛門には往時の活力に満ちた姿は影をひそめ、それはもう残された時間が少なくなっていることを物語っています。そこで、石仏を建てる世話人の1人と外に3人に代行を頼みました。
代行を頼まれたのは、中畑沢1人、下畑沢2人、上畑沢1人です。4人は翌年の建立に間に合うように、また、雪が降って峠の道を歩けなくなる前に、文化7年の秋に畑沢を出立しました。そして真冬の時期の山道を旅することは極めて困難なので、翌春の早い時期に帰る予定です。先ずは、目的の象頭山へまっしぐらに到達して参拝を済ませ、復路、近畿一円を回って西国三十三所の観音を参拝し、最後に伊勢神宮も参拝することができました。何事にも正直な村人4人は、なるべく早く帰って報告するべく、雪が融けるのを待たず、雪が堅くなる旧暦の4月に峠の雪を踏みしめながら、いち早く故郷へ戻りました。
村へ戻った4人は畑沢の村中からの労いを受け、無事の帰還を実感したことでしょう。しかし、休んではいられません。直ぐに石仏を作る石材を立石山からを運び出す作業に取りかかりました。雪が消えてしまったのでは、橇による運搬ができなくなります。どうしても旧暦の4月中にやり遂げる必要があります。運び終わると、据え付け作業です。通常の石仏なら文字を刻んでから据え付けるのですが、今回は尋常な大きさではありません。しかも両面を刻むので、据え付けてあればどの面も刻むことができます。石工が刻むときは、足場を使います。
ようやく巨大な石仏が完成しました。それでも巡礼した4人には、何か物足りない思いがあります。あれだけ苦労して巡礼したにもかかわらず、自分たちが巡礼したことを記念するものが何もないのです。そこで、4人組は考えました。
「そうだ、記念碑を建てよう。しかし、本来の巨大石仏は建てられたのだから、大っぴらにはできない。そして、何よりも金がないが、自分たちでこっそりと建てよう」
そこで、彫りやすい地元の石材は使わずに、土台石と言って他の村から石材を調達し、石工も頼まないで自分たちで懸命に文字を彫りました。決して出来栄えは威張れるものではありませんが、一生一代の旅の記録を後世に残すことができたことに満足を覚えました。どの石仏よりも素朴で、実際に村人の手による村人の息遣いが伝わってくるものです。
というのが、私の推理です。素人はいくら自由に考えても、その資質を問われることがありません。素人っていいですね。
ところで、4人が畑沢に帰ってきたときの光景は、下の写真に近いかもしれません。