畑沢には二体の如意輪観音があります。ブログに投稿する以上は如意輪観音を理解しようと、一生懸命に勉強しましたが、どの説明にも仏教用語が多用されて、私にはよく理解できませんでした。それでも、要は「一切すべての民の願望を満たし、苦しみをなくす」ありがたい仏様であることだけは分かりました。江戸時代中期以降は、女性の信仰の対象になることが多くなり、月待供養、念仏供養などの主尊として数多く造られるようになったそうです。畑沢の如意輪観音もその時代ということになります。畑沢の男は庚申講、御婦人方はこの如意輪観音を主尊にした「観音講」などを行っていた風景が垣間見えます。
如意輪観音は、立て膝で頬に指を当てくつろいだ姿をしており、どこかほっとさせるものがあります。仏教の専門家に言わせると、「そうではない。……云々」となるのでしょうが、そこは素人ですから御勘弁いただくことにします。
如意輪観音は、文献を探しても、尾花沢市内の畑沢以外の地域ではあまり見られないようです。私も他の地区で見たことがありません。ネットで検索しても、山形県内では致道博物館にある一体だけしか探すことができませんでした。そもそも、山形県全体でもそう多くはないのではないでしょうか。
では何故、畑沢には二体もあったのでしょう。畑沢には、この如意輪観音に限らず、当時、50戸程度の村にしては、多すぎるほどの石仏があります。しかも、農地が少ないので、農業収入は少なかったことが想像されます。それでも50戸も存在でき、石仏も数多く作れる財力があったのは、背炙り古道に関した何かが収入を支えたと考えられます。また、収入だけでなく、文化も背炙り古道から数多く入ってきて、石仏に関しての知識が豊富だったのではないでしょうか。
さて、初めに下畑沢の地蔵庵入口にある如意輪観音を紹介します。過日、地蔵庵を紹介した時にも写真を掲載しましたので、記憶にある方もいらっしゃると思います。この如意輪観音には、「順禮」「寛政七卯」「八月吉日講」の文字が見えます。西暦1795年にあたります。松平定信(徳川吉宗の孫)による寛政の改革が2年前に終わったころです。
石仏は、風化したのか廃仏毀釈の犠牲になったのか、残念なことに顔面が壊れています。それでも、この石仏は垢抜けした洗練さがあり、丁寧な作りを感じさせます。ところが、文字の刻み方には素朴さを感じます。石材は畑沢の産の凝灰岩と比べると、きめが細かいところを見ると、他の地域で産したと考えられます。そのためか年数の割には文字が鮮明に残されています。恐らく、この如意輪観音は、かなり遠くで造られたものが運ばれてから、文字は畑沢の石工によって刻まれたものと思います。(畑沢にも石工がいました。)
二体目の如意輪観音です。これは、中畑沢と下畑沢の墓地の中にありました。実は私が見つけたものではなくて、尾花沢市教育委員会の専門家から教えていただきました。上記の如意輪観音と比べると違いが歴然としています。石材は地元産の脆い凝灰岩で、頭部が失われています。元々の形は、地蔵庵近くのものとほぼ同じ姿だった思います。しかし、こちらは全体的に地元らしさが滲み出ています。素朴なのです。この如意輪観音は、上記の如意輪観音を真似て地元の石工が一生懸命に彫ったような気がします。これも根拠がありません。「地元の血」がそう感じさせます。如意輪観音は、「講」における信仰の証として建てるほかに、女性の墓の脇に建てる場合があるそうですので、この如意輪観音も墓に添えられた可能性もあります。しかし、この如意輪観音がある場所には2人の施主による「百萬返供養塔」もありましたので、その場所が特定の家のためのものではないようです(この墓地は、共有地で個人ごとの所有になっていません。)。そう考えますと、村の如意輪観音である可能性の方が高いと思われます。なお、この如意輪観音は、これまで紹介した石仏に2回も名前が出てきた古い歴史を持つ家の墓に近い所ですので、畑沢の歴史や墓地の経歴との関係が興味深いところです。