~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

春の公開レッスン

2008年03月28日 19時29分21秒 | レッスン&セミナー
地元音楽高校で連日開催されている室内楽セミナーのひとつ、ピアノの公開レッスンに行ってまいりました。

昨年は、友人のピンチヒッターで急遽「展覧会の絵」から数曲を松本和将さんにレッスンしていただいた私でしたが、今年は聴講で参加。

全部聴くと一日仕事なので午後の2人を聴きにいきましたが、この2人が日ごろ懇意にしているお嬢さん方。
1人は上の子のクラスメートAちゃんで、もう1人は昨年すでにソロリサイタルを開催したという期待の中学2年生Mちゃん。

Aちゃんはべートーベンの一番のソナタの第1&4楽章。
この曲は先日発表会でも聴かせていただいたのですが、よく弾いてました。
仕上げ(というか譜読み)にかなり時間のかかるお嬢さんなのですが、仕上がったものをステージで弾くと、練習の時とは別人のような出来栄え(笑)です。

先日聴いたときは、小6としては相当なレベルと思いましたが、これをコンクールにかける、あるいは年齢ということを考慮せずに、あくまでもベートーベンの楽曲ということで演奏するということであれば、まだまだやるべきことはたくさんあると感じていました。・・特に第4楽章の和音の鳴らし方。

通しで聴かれた松本さんは「勢いはすごい!これは認める」と。
で、「ベートーベンというとどんなイメージもってる?」とAちゃんにきいたところAちゃんは、
「情熱的・・あと怒ってる・・・」と(笑)。
「そうだね。あたってるとは思うんだけど、ベートーベンて繊細なところとかやさしいっていうのかな、そういうところもあると思うし、それが表現されないと、逆に情熱的なところが生きてこないんだよね。今の演奏はちょっと『いつも怒ってる』って感じかな」


だいたいレッスン、特に公開レッスンの時は、できてないところを言うことになってますから(笑)、「できている」ところをほめることはまずないです。
なので、ここであえて私がいうと、Aちゃんの演奏のいいところは「音がしっかりと鳴っていること」「キレやリズムに勢いがあり、聴いているものをのせること」「細かい動きまでよくさらっていて、流れとしては妨げるところがないこと」
といったところです。
まあ、これだけでもかなりのレベルとは思いますので、レッスンはさらにプラスαのことを求めているわけですが、大変重要なことでもあります。

ベートーベンについてはとにかく「美しいところ」「包容力を感じるような大きなところ」(これはたいがい、転調して長調になったあたりで表れることが多いように感じますが)をよく感じるようにと、私自身も何人かの先生に指導を受けましたし、自分でもそう思っています。

でもそれは、テクニックからいっても感情面からいっても、子どもの頃は大変難しいことだと思います。
テクニックからいうと、ピアノとかピアニッシモがうまく表現できること、あとレガート奏法がうまくいくことが条件になってくると思いますから、まずこの時点で相当難しい。
もっと難しいのはその箇所に表現されたものだと思うし、大人でも感じ取ることのできる人とそうでない人がいるかもしれません。

・・・なので、Aちゃんは「できてない」「弾けてない」と思う必要はまったくないと思うのだけれど、ベートーベンのソナタを弾くということは、それだけの内容を要求されるし、それを表現するためにいろいろな面から勉強したり感じたりしていかねばならない、ということを理解してほしいところです。

あとは、緊張感のある連続単音の弾き方(ドドドドというスタカート)、和音を弾く際(鳴らす際)の力の抜きどころ、などの指導を受けていましたが、いずれも難しいけれど、大変重要なことばかり。
松本さんは第一線でバリバリ活躍している30前のピアニストですから、レッスンの時は、自分でもよく弾いてくださいます。このベートーベンのソナタもご自分のレパートリーというわけではないと思うのですが、ほぼ全部弾いてくださいました。


次は中2のMちゃん・・これはすごいです、リストの超絶技巧練習曲の10番とショパンのコンチェルトの1番。
そんなたくさん弾くの?とびっくりしたんですが、リスト弾いた時点でなぜ2曲なのかわかりました。

リスト弾き終わって、松本さん思わず拍手
「中2だよね?すごいなあ。言うことないよ。この曲のキャラクターは十分表現できてるし、テクニックも問題ない。それにふつうにしてるとやわらかい感じなのに、座るといきなり空気変えるし。これって教えられてできることじゃないからねえ。・・・ほんとに中2?」

私はちょっと前に某所でこの曲聴きましたけど、今日は近くで聴いていたせいかそれともMちゃんの調子良かったのか、ほんとにすばらしかった。
松本さんは言うことなくて「何か困っていることとかありませんか?」
Mちゃん「えっと・・ステージではすごく速く弾いてしまうんです」(・・・超絶を速く弾いてしまう、という時点でフツウではないのだが・・・)

「それはねえ・・・音楽家の課題というかねえ・・」と苦笑い状態でしたけど、自身のコンチェルトの時の経験とかを話されて
「リハーサルの時とかにね、なるべく客席のほうを見てみたりね・・うちで練習するときも横を向いてみたりね・・そうすると思いがけないところから自分の音が聴こえてきて、他人の耳のような感じで『あ、今走り気味だった?』と演奏しながら気づくことがあるよ」

椅子に並んでかけて、リラックスした姿勢で、一人称も『オレ』で(笑)、まさに音楽家同士の雰囲気。松本さん自身も「こうして話してると大人と話してるみたいなんだけど・・・中2だよねっ?!」(←ちょいしつこい・・爆)


そのあとは、ここからは「上級者のみのお席」みたいな内容のレッスン。
「すごく速いオクターブのパッセージでも小指そのものを動かして音色を作る」とか、「盛り上がり方のバリエーションがもっといろいろあるといいね」などなど。しかも、松本さんも弾くんですよ、その場でいきなり超絶10番をバリバリと。

次にショパンのコンチェルトもあって、こちらは「ショパンは人によっていろいろあるんだけど・・」といいつつも、主に音色の変化とか長いフレーズのもっていきかたの指導がありましたが、これもその場で弾くんですよ、松本さん。しかもほぼ暗譜。

たしかコンチェルトはラフマニノフの2番3番、ショスタコ、などなどをたくさんのレパートリーをお持ちだったと思いますが、どれでもさっと弾けるもんなんですかね?・・・・すごすぎる・・・



その後休憩だったので「昨年はお世話になりました」とご挨拶したら、とりあえず覚えていてくださったようで、フランクのチェロソナタのCD(趙静&松本和将)を買いつつ、
「・・実は、近々これの2楽章弾くんですよ(泣)」というと、
「あれは難しいよね、ほんとに」とおっしゃってて、あそうか、やっぱり難しいんだよかった(なにもよくはないのだけれど)、と思ったことでした。


今日は聴講料1000円で、いい演奏をたくさん聴くことができて、ほんとにお得。
こんな時間はほんとに幸せです。
・・・うちに帰ると模様替え中で部屋はメチャクチャ、子どもは一日中ブラブラ・・・(泣)



すべての道は・・

2008年03月28日 02時06分51秒 | 雑感
知人のブログや、ブログへのコメントなどをみてちょっと思ったこと。


なにごともその道でお仕事をしていこうと思ったならば、まんべんなくいろいろできる器用さも必要かもしれないけれど、ある分野に特定した専門性というか個性がやはり欠かせないでのはないかということ。
そういうことは私がいうまでもなく、社会でお仕事をされている方々は痛感されていることなのだろうとは思うのですが・・・。


たとえば、私の古い友人で学校の勉強も英語もあまり好きではないのだけれど、なぜかドイツ語だけが好きで、日常会話にはほぼ問題がない者がおりました。
ドイツ系の会社の秘書も勤めていたし、私からみれば「すっごーい!」という感じだったのですが、彼女にはいわゆる「専門分野」がなく、通訳にしても翻訳にしてもキャリアを重ねようとするとちょっと苦しいものがあり、結局はいろいろな条件が重なってドイツ語を生かしたお仕事はやめてしまいました。
・・・また、これはかつての話なんで聞き流していただきたいのですが・・・
私、10年くらい前までの数年間、だらだらと翻訳の勉強をしておりまして(今ではすっかり忘れきってしまい、中学生以下のレベルと思います・・汗)、できたらジャンルをしぼって仕事につなげられたらいいなあ・・と漠然と思っておりましたが、だらだらやっているうちに気付いたのは、「自分は英語が好きなのではなく、英語を通して日本語の表現を探ることそのもの好きなのだ」ということ。
好きなジャンルも文学系の英日翻訳に限られていて、これではお仕事としてはまずムリ・・・・・ということで未練なくやめてしまい、今では英語そのものを読むこともまずありません。
いや、語学でなくとも、忘れ去っているのは日本の古典文学でも同じことで、文法なんかはもう全然わかりません。主人にもあきれられるくらい・・(汗)。単語も忘れましたねえ。ただ、単語も文法もあやしいのに、読むのは別に苦痛ではないです。


英語などは、これからは読み書きは当たり前の時代でしょう(というよりすでにそういう時代なのだと思いますが)。
凡人には「読み書き」まででも、相当な大変さなのですが(国によってもかなり違いがありますし)、でもそれは英語圏の方にとっては当たり前のことなんですよね。
日本人であっても読みにくい古典文学にしても、これはもう読めてなんぼで、読めないことには研究もなにも始まらない。


それをいうなら、楽器だってある一定のレベルまでは弾けないことには始まらない。どういう楽曲も可もなく不可もなくのところまでは弾けて、聴いているほうも「ああ、こういう曲ね」とまずはすっと分かることが大事。
そこから先がえらく長く厳しい道のりになるわけで、ここからの極め方、あるいは生来備わっているものによって、たとえば「モーツァルトなら誰それの演奏」「このピアニストの音が好きでたまらない」などという分化が生じてくる。


今日たまたま読んだ冊子の中に次のようなくだりがありました。

故河合隼雄氏が、ある指揮者に「深い音とはなにか?」とたずねたところ、
その指揮者(日本人ではないです)はしばらく考えたのち、
「音にその人のトータルパーソナリティが全部掛かっていて、聴く方もトータルパーソナリティが反応する時、深いというのだと思う。それはいつもいつもできることではないが、それができる時がある」と答えられたそう。


まずは、形が整うくらいの技術を身につけ(もちろん技術だけが一人歩きしてもいけないでしょうけど)
次に、「この人はこれだ!(このジャンルだ)」と言われるくらいにあるものを掘り下げ、
最終的には、送り手と受け手が深い部分で反応できるような機会が持てれば理想的
・・・ということでしょうか?


どんな道も大変なものですね。
ただどの道も結局は同じところに通じている、ということでもあるような気がします。