極真時代の先輩から、
関川師範の新潟での偲ぶ会の連絡を頂く。 詳細が決まって今はそれぞれに歩む当時の道場生へ声を掛けてくださっている。 入院している事を告げると、心配頂き、当日出られるなら迎えに行くと、、まだ当日どうなるかわからないんですが、、、そして湯沢は反対方向なんですが?
大丈夫だからと、 暖かいお言葉。
極真空手のキャリアは全て師範に道筋を作ってもらったようなものだった。
(キャリア官僚的な意味ではなく、唯の経歴。傍から見ればたいした事も無いものだが、師範に導いて頂いた大切な戦跡)
大学1年の終わり、全く師範と会話もした事がない、卒業の時期、新大向けの昇段審査会があった。
組手は順番に始まったが、途中から師範は何度も自分を組み手の相手に指名した、そして自分をよく見てくれた。
その流れで2年時新潟大会へ出場する訳だが、
それまで思いっきり組み手をした事のなかった自分が、師範の前で始めて組み手の感覚を掴んだような気がした。
色々とアドバイスを頂き、スムーズな戦い方をはじめて経験した。
そして何より自信が付いた。 師範が褒めてくれた、当たれば効くんだ、と。
その時までは、横並びと思っていた、自分の立ち位置がはっきりした。
学内戦で勝ち残り、黄色で出た新潟大会は、自分でもびっくりする3位入賞をした。
そして秋の全日本の代表に選ばれる。
当時の新潟枠は2つ。3位でもおかしい、緑帯もおかしい。 全日本を目指している多くの先輩を差し置いて代表枠を頂くのもおかしかったが。 結局茶帯1級という事で出場することになった。 師範としては、誰にも攻められる事は無いが、選手があまり弱くては立場が無いと思うがリスクを取ってくれたのだった。
関川師範の新潟での偲ぶ会の連絡を頂く。 詳細が決まって今はそれぞれに歩む当時の道場生へ声を掛けてくださっている。 入院している事を告げると、心配頂き、当日出られるなら迎えに行くと、、まだ当日どうなるかわからないんですが、、、そして湯沢は反対方向なんですが?
大丈夫だからと、 暖かいお言葉。
極真空手のキャリアは全て師範に道筋を作ってもらったようなものだった。
(キャリア官僚的な意味ではなく、唯の経歴。傍から見ればたいした事も無いものだが、師範に導いて頂いた大切な戦跡)
大学1年の終わり、全く師範と会話もした事がない、卒業の時期、新大向けの昇段審査会があった。
組手は順番に始まったが、途中から師範は何度も自分を組み手の相手に指名した、そして自分をよく見てくれた。
その流れで2年時新潟大会へ出場する訳だが、
それまで思いっきり組み手をした事のなかった自分が、師範の前で始めて組み手の感覚を掴んだような気がした。
色々とアドバイスを頂き、スムーズな戦い方をはじめて経験した。
そして何より自信が付いた。 師範が褒めてくれた、当たれば効くんだ、と。
その時までは、横並びと思っていた、自分の立ち位置がはっきりした。
学内戦で勝ち残り、黄色で出た新潟大会は、自分でもびっくりする3位入賞をした。
そして秋の全日本の代表に選ばれる。
当時の新潟枠は2つ。3位でもおかしい、緑帯もおかしい。 全日本を目指している多くの先輩を差し置いて代表枠を頂くのもおかしかったが。 結局茶帯1級という事で出場することになった。 師範としては、誰にも攻められる事は無いが、選手があまり弱くては立場が無いと思うがリスクを取ってくれたのだった。