唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

独り偲ぶ会。5

2014-07-05 20:57:33 | インポート
 師範は、強引に学生を使うと言うイメージを持っている人も多かったが、全く逆で、学生という事で一線を越えないように本当に気を遣って下さっていた。  (基準が違う人間が、こきつかわれると思っていただけだった。  逃げる人は、師範に仕えれば倍以上のものが返ってくるのを知らない。 可愛そうだった。 )

そんな師範から、一度だけ有無を言わさずという事があった。
  電話で、
「スラックス持っているか? ジーパンはだめだからな、スラックスはいて待ってろ。一緒に東京へ行ってくれ。」 ???
 
 訳も解らず東京へ、、用件は車を取りに行く事。 一泊して次の日は師範の横に座ってドライブして帰って来た。
 関越トンネルで師範が、眠くなったから何か歌えと言う。  言われるままにまじめに歌う俺、この時ばかりは音痴でお役に立てた。
 その他の東京での内容はとても濃いもので、衝撃的で、すばらしい経験だった。 何でも経験しておく事は大切だったし師範のお供をしていないと出来ない経験だった。 

 大学の卒業生を送るコンパでの事、 2次会で一生懸命カラオケを歌う後輩に、師範が発した言葉、
  普段カラオケなんかばかりやってないで、OOを見習えと。 歌なんかに気を取られないで空手を一生懸命やっているだろう。 お前らも少しは見習え。。 
 まさか、歌が下手なのをそう言う形で褒められるとは思いもよりませんでしたが、 最後だっただけに有難さがしみた。

 就職する前もそうだったが、就職してからも師範は支部に残って欲しいような感じだった、黒帯の先輩からも、一度よく考えてみるよう言われたりもしていた。 
 そんな中、夏合宿に久しぶりに出て、最終日、最後締めのとき、何故か指名されて道場訓を覚えているか聞かれた。 
  試されているのか??
   普通に押忍と答えると、 最後自分に締めろという。  師範の正面へ出て締めた。 それが最後の合宿となった。

 直後に転勤が来た。
  銀行の移動は突然で前触れなし。 金曜日、辞令が出てそのまま送別会になだれ込んだ。 遅くに寮へ帰ると師範へ挨拶しにいく事で頭が一杯だった。
 翌日、挨拶に行ったが、もう、普通に会話が出来る精神状態ではなかった。
 搾り出すように、「長い間お世話になりました、これ、つまらないものですが。」と、挨拶をすると、
師範に、「それだけか、、お前は、、随分冷たいな。」と返された瞬間、堰き止めていたものが堪えきれなくなった。 
  涙が止まらず、声も出ず、まともに顔を見ることも出来なくなってただ、ただ、すすり泣いていた。

 自分では知らなかった自分の感情に気がついた。 それだけ大きな出来事だった。
 

 
 


独り偲ぶ会。4

2014-07-05 20:53:47 | インポート
 
 師範とは、空手の師弟としての相性がよかったのだと思う。

 独り稽古で、流石に炎天下30キロも40キロも走るときはめったに無かった。 
 しかし、そういう時はよく師範に出会った。 しかもかなり遠くで走っている所、、師範は 自分を見つけて、「おい、おい、どこまで行くんだ。」となる。  夜の稽古時もよく師範に会った。 深夜11時過ぎ古町帰りに寿司を差し入れによってくれた事もあった。 その時も稽古をしていてこんな時間までやっているのかと、なった。 
 
 不思議だが、師範が一番自分の稽古を知っていた。 たまに会うだけだが、いつもやっていると思っていたみたいで、練習し過ぎるなとは言われたが、練習しろと言われた事はない。 調子が悪いと、練習し過ぎだろう休め。 風邪ひいているんじゃないか、休めとなる。
師範にこれだけ信用されると、やらないといけない、師範が思っているような練習をしないといけない。 そして信用されればやる気が出てくる、 弟子とはそう言うものだと思う。 有難い事に好循環が続いた。

私生活でもお世話になった。 3年時からよく自宅に呼んでいただき教育された。 いつも飯をたらふく頂いた。
 師範は学生を呼ぶときは必ず、「試験中か?」 「ゼミで忙しいのか?」 「提出物ないのか?」 などと、いきたくない者が言い訳を出来るように聞いていた。 行きたくなければ、「忙しいです。」と言えばいい。 それで済む。 
  (しかし、断る奴は馬鹿だ、、折角の成長チャンスを逃していた。 )

 師範の気遣いは徹底していた。 学生には相応のことしか要求しない。 何故なら期待もしていないから。。
 だから、自分は意地でも「いきます。」と言っていた。 学生相手に決して無茶は言わない、だから何でも押忍と答えて全てを任せていれば良かった、信頼関係と安心感がそうさせてくれた。  そして、近くにいて行動をともにするだけで教育された。 どれだけ役に立っている事か。

3年の夏休みは殆どを師範宅で過ごさせて頂いた。 
師範が食事を作ってくれたが、不思議に好みが一緒だった。
 さんま塩焼き、大根おろし、シジミの味噌汁、野菜炒め、納豆、キムチなどの副菜、そしてご飯たっぷり。 
  買出しに行っても、お互い同じが良いとなり殆ど同じメニューだった。
食後は師範が片付けをして下さり、きれいになった所で好きなコーヒーを飲む。自分はコーヒーは飲まないのだが、毎回声を掛けてくださる。 「お前飲まないか?」 

 買出しが徒歩のときは恐怖の時間だった。 いきなり「ここからスクワットしていけや。。」となる。
200メートルか300メートルか知らないが延々とスクワットから廻し蹴り、前蹴り、足がプルプルするまで続く。マンツーマンでフオームチェック。 もっと高く、もっと膝上げてスナップ利かせろ、、となる。

ほんの短時間で稽古が出来る事を知る。 道場だけが稽古場ではない。

 自宅稽古といえば、ダンベル持ってのランニング、それを師範がバイクで引っ張る。 最初は冗談半分の気持ちだったが、これがいつまで経っても終わらない、、、、腕が上がらなくなり遠く引き離されてやっと終わった。 と思ったら、
「そこからダッシュ。」 延々とバイクに追われてダッシュが続いた。
 自分たちとは基準が違う、大山道場での稽古のすさまじさが自然にでていたと思う。

後に、極真年鑑新潟支部の欄に、 自分が 内弟子 と載っていた事があった。 
  恐れ多いと、師範に、自分内弟子になってたんですが? と、聞くと、、「嫌なんか。。」 と返された。。
     (今更乍ら、、押忍、ありがとうございます。 )
 
夜は殆ど古町に付いていって飲み屋さん。酒じゃなくておねえちゃん。 
世間知らずの学生が師範にお金を出して頂いて毎夜、毎夜、社会勉強をさせて頂く。今から考えると、本当に有難い事だった。
社会に出てからは、研修所での門限破りなどもよくあり、不真面目な遊び人のように言われていたが、酒の席での失敗は殆ど無い。 深酒しても10年間遅刻も早退も全く無い。
 極真時代に、まじめ過ぎるからもっと遊べと、師範、先輩に遊ばせて頂いたお陰である。

 しかし、、当時は師範と一緒にそう言う店に行っても自由に振舞えるはずもない。。
     気楽にしろ、、と言われても、、、  師範に緊張していた。 んですよ。。
 



独り偲ぶ会。3

2014-07-05 20:51:04 | インポート
 社会人2年目の春、土日中心の独り稽古のみで選手は引退したつもりでいたが、突然師範から呼び出される。

  「北海道でアジア大会があるんだけど、、お前代表に決まったから、北信越代表。 」  はあーー????

毎日遅くまで飲み歩き、稽古もしていない、そんな人間がアジア大会に出る訳もいかず、いったん断って、、師範も了承したはずだったが、、何故か再度呼び出された。

 固辞していると、「4年間一生懸命稽古して来たのに何もしてやれなかったから、俺からせめてものプレゼントだよ。参加費もかからない、宿泊費、交通費全て主催者もちだから負担はないだろう。 大きな舞台を経験しておけば何かと後々為になるんだから、出ておけ。」

 殆ど全てのキャリアは師範に道筋をつけて頂いてのものだった。 私生活でも、散々お世話になり教育して頂いていた。
お世話になりつくしていたのに、師範は何もしてあげられなかったと、思って下さっていたのか??。 
びっくりするやら、有難いやら、申し訳ないやら、もったいないやら、 、、、、恐縮するしかなかった。
 もう既にエントリー済みという事だった。

 その日からゲロを吐く思いで夜必死に練習したが、甘く無い。 
試合は日本人で自分だけ初戦敗退した。 
 普通一回戦はアジアの選手なので何とかなるものなのだが、、
こういう時は悪い事が起こるもので、対戦相手はスリランカの富豪の息子で城南支部に空手留学し、毎日全日本選手と練習しているという。 どうりで、試合前師範を挟んで話していた、ひろしげ師範が相手側のセコンドに付いていておかしいと思った。 負けたときの総裁の苦虫を噛み潰すような顔。 師範も流石に後悔していたかも知れない。本当に申し訳なかった。
 しかし、師範のお陰でこれは本当にいい経験をさせて頂いた。 
 北海道を極真全ての支部長、役員、選手がバスに分譲して移動する。
 大会前のレセプション、大会後の打ち上げパーティーはアジアの極真が一体となった感じで盛り上がった。 試合後は温泉ホテルが用意されていて至れり尽くせりだった。 

 世に出る前の、かみそりキックの山本ケンサク、チャンピオンになった阿部、内弟子だった石田、他の同年代の選手と生活をともに出来、色々話す機会もあった。
 当時は負けたショックが大きくて落ち込んでいたが、今となっては、本当にいい思い出を作って頂いた。
全くの底辺の選手を、、、師範には本当に頭が上がらない。

  選手としてのここまでのキャリアは師範から頂いた大切なものとなっている。 当時は恥ずかしくてアジア大会代表などと言えなかったが、今は、自分から言うようにしている。
 折角師範がそこまで考えてくれたのだから。
 そして、そう言うことでの影響は大きい。 がりがりになった自分を見て大ほらと思われようと関係ない。師範との繋がりの証だから。

 


独り偲ぶ会。2

2014-07-05 20:46:28 | インポート
全日本が終わって、 正月明けの冬合宿。 
3級だったが、試合に出た時の1級への飛び級審査が認められ、昇級15人組み手。無事完遂、1級にして頂いた。
 これも師範が配慮してくれた事だ。

その後は、支部内の予選もせずに、東北大会、全日本ウエイト制など、殆どの試合にエントリーさせて頂いた。
 実力が無いから当然なのだが、残念な結果が多かった。

3年時の東北大会は188cmの外人と当たったが延長判定負け。
  前日の深酒で撃沈。弱い精神力を露呈する。
 前日、飲み屋で12時過ぎになり、
 「すいません明日試合ですので、お先に失礼させていただきます。」 と、切り出してしまった。
すると、師範から
 「酒のんで試合ができないじゃ空手やめろ、寝首を刈られたらどうするんだ。これも修行と思えないのならやめた方がいい。」 と言われた。
 当事は真剣に受け止められず、負けても仕方が無いという甘えがあった。
  師範はそのあたりを鍛えようと飲み屋に遅くまで連れ出したのでしょう。

最悪だったのは、4年時のウエイト制。
 3回戦、師範が主審をする試合で、副審2人が相手に旗を上げ、師範に相手に勝ちを宣告させるという失態を演じた。
 情け無いやら、申し訳ないやらで、控え室でシャワーを浴びていると涙が流れて来た。

師範は常々 「俺は弟子には旗を上げないからな、、、恨むなよ。」と言っていた。
 全日本の副審判長としては当然だと思っていたし、その言葉が好きだった。 
    しかし、最悪の結果になってしまった。 

それでも師範は怒りもせず、
  「本当の空手なら、顔面ありならお前勝ってるだろう、、いいんだよ。」 と、慰めてくれた。

試合で怒鳴られたり、怒られた事は一度も無かった。 指導している弟子の試合は自分の評価みたいなものだから、多く指導者、最近は親が、試合で負けた選手、子供に罵声を浴びせる。  自分の面子が立たなかった怒りをぶつけるように。 

   師範にはそう言う感覚が全く無く本当に恵まれていたと思う。

 しかし、反対に技術的な事はよくアドバイスされた。

 「ローはこう打つんだよ、、こうした方が速いだろう。」 そして実演、「押忍 いっツ。」となる。
 「なんで上段蹴らないんだ、がら空きなのに、直ぐKO出来たのに。」
 「受けて直ぐに返すんだよ、イッテンポ遅い。 打たれる前に打つくらいで こうだよ。 お前打って来てみろ、、」

 本当は勝って欲しいに決まっている。 師範も人の子、、主審としての理性は守っていたが、、
 後からビデオを見ると、、、場外から戻る時など、相手選手の道着を掴んで振り回さんばかりに引っ張っている事があった。  それは、不甲斐ない弟子へのフラストレーションを晴らしているかのようだった。 そういう映像を見るたびに申し訳無い気持ちでいっぱいだった。


4年時は、5月から2ヶ月間で3大会に出た。 師範が、最後だから全部出ろと言ったからだった。
 最後は2年に一度の新潟大会だった、3回戦、当時新潟最強と言われた先輩に奇跡的に勝って、やっとベスト8。 次に当たったのは全日本の常連で、この大会優勝した先輩。  これ、地方大会ですよねという感じだった。

 勝てば良いだけの話だが、何でこんなレベルの高い山があるんですかという感じだった。
 
しかも、、、師範は、就職シーズンを迎えていた、自分に
  「いい所へ就職するためには実績が必要なんだよ、優勝できるように弱いやつと当たるようにするから任せておけ。」 などと言っていたのに。 (当然冗談だが。)

  散々な結果で終わったが、有難い事に秋の全日本にはまた出場の機会を頂いた。 
 しかし残念ながら、全日本は1回線で敗退。 ここでも期待に応えられず。 卒業した。

 その後、都銀に就職したのだが、思いもよらず、、1年目のリクルーターもあり配属が新潟支店になった。
 まだ極真会から離れなくて済んだ、幸運。 師範との縁は続いた。
 



独り偲ぶ会。1

2014-07-05 20:37:29 | インポート
 全日本当日、対戦相手は全日本ウエイト制重量級2位の選手。 
 当日、一緒に新潟から出た先輩は、会うといきなり 「おめでとう、TVに写るぞ。」と。 勿論KO負け前提の話。
  楽天家の新発田、村上支部だから、、よく遊ばれた。

しかし、師範はよほど心配だったようで、
試合前、自分の近くにいて気を遣わない様に気遣って下さっていた。
 「栗 たべろや、、」
 「は、、?」
 「勝ち栗、縁起ものだよ」 と、、、当時は勝ち栗も知らなかった。
こんな感じの会話が続いていた。

そこへ、対戦選手が様子を伺うようにやってきた。 
師範に挨拶して。自分へ「いやー、強そうだね。よろしくね。」 と、声を掛けられた。  
 
すかさず師範が、
 「おい、お前、うちのやつ壊したら唯じゃおかねからな。。どう見たっておかしいだろう、お前の半分位しか無いんだから。。」  
 師範を知っている自分には何気ない普通の言葉だったが、この一言で表情が明らかに変わっていた。

内容ではなく雰囲気が心に突き刺さり試合の時まで落ち着かなくなっていたのではないかと思う。
 試合は開始15秒、タイミングよく上段蹴りがまぐれあたりしてKOした。  師範の効力恐るべし。。

 ビデオで見ると全く動けていなかったから、もう少しやっていたら酷い負けをしたと思う。 胸骨骨折とか、、、病院送りとか。。
 しかし、相手が様子を伺っているうちに内に、、タイミングがあってしまった。

 師範の一言で全く展開が違ってしまっていた。 
 そして、自分にとっては相手より師範の方が怖かったから、、普通に戦うだけだった。 
 体が大きくて、上段ががら空きで、なんとなく当たりそうだった。
 (当時、師範に教えて頂いていた空手は、顔面ガードが絶対で、試合のルールに関係なく、顔面を殴られた方も悪いと言うものだった。)
そういうものが合い混ざってなんとなく勝ちが転んできたようだった。 その当時は自分の試合の事で精一杯だったが、今考えると本当に有難い。 試合後も、控え室へ大声でみんなにアピールするように、「おー、よく勝ったな。相手ひっくり返ってたぞー。」と、やって来てくれた。
  みんなに振り向かれとまっどった、が、、師範が完全に場の雰囲気を支配していてその傘の中にいるひな鳥みたいになっていた。 

 戦いやすい雰囲気を十分に作って頂いていたが、実力はどうしようも無く、2回戦で負けた。 

でも、この時は師範に喜んでもらえたと思う。しかし残念ながら最初で最後だったと思う。
 その後の試合経験のことを考えると、今となってはどうしようも無いが、もう少し出来たのではないか、もっとやれたのではないかと、後悔が多い。