唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

経験することが全て。

2014-07-12 11:34:53 | インポート

俺の普段の言動や雰囲気がそうさせるのだろうと、反省しないといけないのだが、

 「死んでもいいや。」と、自暴自棄になっているように捉えられている感じがある。

  死を意識して生きる事は、今を大切にする感覚につながり、中身の濃い人生を提供してくれる、、と感じていて、ある意味有難い環境だとは思っているが、  何も、死にたいとは思っていない。

 誰でもそうだが、自分の感覚を理解してもらうのは無理なので仕方が無いが、経験が違うから尚更理解不能なのだと思う。

 
 
 長く生きる事は大切な事です。 でも、中身も大事では無いでしょうか?

 普通の感覚では味わえないものを味あわせてくれる、外的要因に感謝しています。

自分では追い込めない所を追い込んで、普段感じられない感覚を感じさせてくれる人生、最高じゃないでしょうか?

 人生はどれだけ経験できるかが勝負でしょう。

  毎日、毎日同じ事を続ける。 これは、続けられた人にしか味わえない人生です。

  極限まで追い詰められて、自分の能力を超えるほどの事を経験することも同じです、その人にしか経験できない人生です。

  色々な事を経験する為には、外部からの強烈な刺激が必要なのです。

 一日、一日を大切に生きられるような刺激は、ある意味、ウエルカム では無いでしょうか?
 複雑な問題にとり組める絶好のチャンスです。

    何の刺激もなくて自分を成長させ続けられる程、レベルの高くない自分には必要なことです。
 
 
    



漢方医院を見つける。

2014-07-10 13:31:50 | インポート
 間質性肺炎で、死ぬほど辛い気管支鏡検査を終え、(他のみなさんよくこんなものをやると感心した。笑える程に凄い検査だった。)結果がでたが、特に変わった事も無く、ステロイドパルスの治療を勧められる。


 医者は簡単に言うが、免疫力が落ち確実にリバウンドする薬を簡単に使う訳にはいかない。しかも、すでに一度体験済み、1年3ヶ月経って未だ前回分の減薬が終わらないでいる中で簡単では無いでしょう。 しかも病気は薬剤性、そこへ薬剤で対応するっておかしくね。


漢方医を見つけてコンタクトを取ると、忙しいと言いつつも、興味を持って先生が話を聞いてくる。 すると、「あんた、頭いいね。大学は理系か?」  「あんた、勇気があるね。 死んだらどうするの?」

 この先生、自分の言っている理論を患者が理解できないでストレスが溜まっているようだった。(先生の奇人さにも問題があるような。)

 最初は横柄な感じでだめかと思ったが、今まで、疑問だった事をいくつも解明してくれた。 電話で、短時間で。


 西洋医師のいう事がそれほど正しいのかよく考えれば直ぐにわかるのだが。
 自分も何故、他の人が医師の言う事を素直に聞くのか全く解せない。 
そういう患者ばかりだから、 先生も世の中を敵にまわしているような感じになっているのでしょう。

ここでも、俺は普通の人と感覚、基準がちがう。 

奇人先生とは合うかもしれない。
http://www.matsumotoclinic.com/khaien/k_index.html


独り偲ぶ会。6

2014-07-09 19:52:42 | インポート
転勤し師範とは秋の全日本で会う位だったが、仙台転勤でそれも無くなっていた。 東京へ戻って、OB会、学内戦の連絡をもらう、
同時にうれしくない知らせ、師範が倒れて体の自由が利かないと。。

 学内戦当日、師範は会うなり、「おう、こんなんになってしまったよ。」 とおどけていたが、受けた衝撃は体を突き抜けていくようなものだった。 本当かよ。。 聞いていたから知っていた、しかし、目の前で見てはじめて実感したのだろう。

 強い衝撃そのままに、試合に入っていった。 卒業して7年、道着を着る事数回、技も力も気力も無く、体は動くはずはなかったが、必死になって動かした。 しかし、当たらない、効かない、???? 。
 最後まで負けはしなかったが、全く恥ずかしい、自分自身がショックを受けるような試合だった。 
 しかし、 最後、正面の師範の所に挨拶に行った時、耳を疑うような言葉を頂いた。
   「がんばったな、お前は俺の宝だよ。。」 と。 俺にとっても宝の言葉。 追い込まれると必ず頭に浮かび勇気づけてくれる。
  低レベルだが、数年ぶりのトーナメントをして、痛くて痛くて歩けない、散々だった。

その、2ヵ月後、自分が病になる。 激しい下痢が続き、潰瘍性大腸炎。
 2年後、ストレスから解放されて病気を治そうと会社を辞めるが、全く治らず、数年間、知り合いに用意して頂いたマンションに篭りる日々が続いた。

 大分よくなり、仕事をはじめ、新潟を訪れる機会があり、師範の居場所を聞き出して初めて施設を訪問した。 
 まだ、その時は会話が出来て元気だった、久しぶりの再会をとても喜んでくれた。 
 自分を施設から出せと、拳を握って殴るまねをする。 自分を新大、主将、とまわりに説明する。帰る時は、玄関まで送って下さり、ずっとこちらを見送ってくださってくれていた。 しかし、あまりのお変わり様に、自分の中では、最後になるかもしれないのか?という気持ちがあって、とても動揺していた。

その後も、会う時は、病院で、施設の、ベットの上でになった。
 時には関川道場の先輩方と一緒に、お伺いした。
 一時は、危篤状態になり、懸命の蘇生で助かった後のお見舞いの時もあった。
 OB会前にみんなで伺った時は喜んでくれたと思う。

それから極真会館新潟支部関川道場は 本部直轄になり、また、師範と連絡が取れない状況になっていた。(動けば判っただろうが、動かなかった。)

大分健康を取り戻してきた矢先今度は 劇症心筋炎 で緊急搬送され4ヶ月入院。 入院中に自分に師範の居所を聞いてきていた人がおり、退院後 随分時間が経ってから連絡を入れると、逆に居場所を教えて頂く。
 その方は、直ぐに金沢を訪問して来た。 自分は雪解けを待って4月になってしまったが、久しぶりに会いに行ってきた。 
 
 久しぶりの師範は元気で言葉も判ったが、やっぱり少し弱った感じがした。 
 その時は、前回までと違って、なんとなく久しぶりと言うより、ああ、又来たな。。と言う感じだった。
  慣れというのか、関係が近くになったというか、 特別再会と言う感じがしなかった。
 健康状態については気がもめたが、、家族の下に引き取られ養生しているので安心だった。

 何回か来ているうちにご家族とも会うことが出来るだろう、これで一安心と思っていた 矢先
  道場責任者の方から、訃報を頂いた。  

何度も、何度も これが最後かも知れないという思いを頭の中に浮かべて師範の元を離れると言う事を繰り返し、  最後にお会いした時は、いつものように名残を惜しむ事も無く、「又来ます。」 「 じゃあな。」 と言う感じで軽く別れられた。   長い年月をかけて、ゆっくりお別れした事で感情が耐えられる程度に納まったのだと思う。
 
 いきなりのショックだったら、、
 一時は、師範に挨拶もせずに俺が先に行くのかと本気で思った事もある弱った心臓がたまったものではなかっただろう。

最後、ご子息、ご家族の下で療養され。
師範が入る前から、金沢ー新潟 片道4時間掛けて月に一度のお墓参りを欠かさない先祖供養を大切にするご子息、ご家族の守るお墓に入る。    本当によかった。  


 師範、20年間本当にお疲れ様でした。 安らかに、ゆっくりと お休みください。
 微力ながら、ご冥福をお祈りいたします。

  本当にお世話になりました。 ありがとうございました。
  
  
 



独り偲ぶ会。5

2014-07-05 20:57:33 | インポート
 師範は、強引に学生を使うと言うイメージを持っている人も多かったが、全く逆で、学生という事で一線を越えないように本当に気を遣って下さっていた。  (基準が違う人間が、こきつかわれると思っていただけだった。  逃げる人は、師範に仕えれば倍以上のものが返ってくるのを知らない。 可愛そうだった。 )

そんな師範から、一度だけ有無を言わさずという事があった。
  電話で、
「スラックス持っているか? ジーパンはだめだからな、スラックスはいて待ってろ。一緒に東京へ行ってくれ。」 ???
 
 訳も解らず東京へ、、用件は車を取りに行く事。 一泊して次の日は師範の横に座ってドライブして帰って来た。
 関越トンネルで師範が、眠くなったから何か歌えと言う。  言われるままにまじめに歌う俺、この時ばかりは音痴でお役に立てた。
 その他の東京での内容はとても濃いもので、衝撃的で、すばらしい経験だった。 何でも経験しておく事は大切だったし師範のお供をしていないと出来ない経験だった。 

 大学の卒業生を送るコンパでの事、 2次会で一生懸命カラオケを歌う後輩に、師範が発した言葉、
  普段カラオケなんかばかりやってないで、OOを見習えと。 歌なんかに気を取られないで空手を一生懸命やっているだろう。 お前らも少しは見習え。。 
 まさか、歌が下手なのをそう言う形で褒められるとは思いもよりませんでしたが、 最後だっただけに有難さがしみた。

 就職する前もそうだったが、就職してからも師範は支部に残って欲しいような感じだった、黒帯の先輩からも、一度よく考えてみるよう言われたりもしていた。 
 そんな中、夏合宿に久しぶりに出て、最終日、最後締めのとき、何故か指名されて道場訓を覚えているか聞かれた。 
  試されているのか??
   普通に押忍と答えると、 最後自分に締めろという。  師範の正面へ出て締めた。 それが最後の合宿となった。

 直後に転勤が来た。
  銀行の移動は突然で前触れなし。 金曜日、辞令が出てそのまま送別会になだれ込んだ。 遅くに寮へ帰ると師範へ挨拶しにいく事で頭が一杯だった。
 翌日、挨拶に行ったが、もう、普通に会話が出来る精神状態ではなかった。
 搾り出すように、「長い間お世話になりました、これ、つまらないものですが。」と、挨拶をすると、
師範に、「それだけか、、お前は、、随分冷たいな。」と返された瞬間、堰き止めていたものが堪えきれなくなった。 
  涙が止まらず、声も出ず、まともに顔を見ることも出来なくなってただ、ただ、すすり泣いていた。

 自分では知らなかった自分の感情に気がついた。 それだけ大きな出来事だった。
 

 
 


独り偲ぶ会。4

2014-07-05 20:53:47 | インポート
 
 師範とは、空手の師弟としての相性がよかったのだと思う。

 独り稽古で、流石に炎天下30キロも40キロも走るときはめったに無かった。 
 しかし、そういう時はよく師範に出会った。 しかもかなり遠くで走っている所、、師範は 自分を見つけて、「おい、おい、どこまで行くんだ。」となる。  夜の稽古時もよく師範に会った。 深夜11時過ぎ古町帰りに寿司を差し入れによってくれた事もあった。 その時も稽古をしていてこんな時間までやっているのかと、なった。 
 
 不思議だが、師範が一番自分の稽古を知っていた。 たまに会うだけだが、いつもやっていると思っていたみたいで、練習し過ぎるなとは言われたが、練習しろと言われた事はない。 調子が悪いと、練習し過ぎだろう休め。 風邪ひいているんじゃないか、休めとなる。
師範にこれだけ信用されると、やらないといけない、師範が思っているような練習をしないといけない。 そして信用されればやる気が出てくる、 弟子とはそう言うものだと思う。 有難い事に好循環が続いた。

私生活でもお世話になった。 3年時からよく自宅に呼んでいただき教育された。 いつも飯をたらふく頂いた。
 師範は学生を呼ぶときは必ず、「試験中か?」 「ゼミで忙しいのか?」 「提出物ないのか?」 などと、いきたくない者が言い訳を出来るように聞いていた。 行きたくなければ、「忙しいです。」と言えばいい。 それで済む。 
  (しかし、断る奴は馬鹿だ、、折角の成長チャンスを逃していた。 )

 師範の気遣いは徹底していた。 学生には相応のことしか要求しない。 何故なら期待もしていないから。。
 だから、自分は意地でも「いきます。」と言っていた。 学生相手に決して無茶は言わない、だから何でも押忍と答えて全てを任せていれば良かった、信頼関係と安心感がそうさせてくれた。  そして、近くにいて行動をともにするだけで教育された。 どれだけ役に立っている事か。

3年の夏休みは殆どを師範宅で過ごさせて頂いた。 
師範が食事を作ってくれたが、不思議に好みが一緒だった。
 さんま塩焼き、大根おろし、シジミの味噌汁、野菜炒め、納豆、キムチなどの副菜、そしてご飯たっぷり。 
  買出しに行っても、お互い同じが良いとなり殆ど同じメニューだった。
食後は師範が片付けをして下さり、きれいになった所で好きなコーヒーを飲む。自分はコーヒーは飲まないのだが、毎回声を掛けてくださる。 「お前飲まないか?」 

 買出しが徒歩のときは恐怖の時間だった。 いきなり「ここからスクワットしていけや。。」となる。
200メートルか300メートルか知らないが延々とスクワットから廻し蹴り、前蹴り、足がプルプルするまで続く。マンツーマンでフオームチェック。 もっと高く、もっと膝上げてスナップ利かせろ、、となる。

ほんの短時間で稽古が出来る事を知る。 道場だけが稽古場ではない。

 自宅稽古といえば、ダンベル持ってのランニング、それを師範がバイクで引っ張る。 最初は冗談半分の気持ちだったが、これがいつまで経っても終わらない、、、、腕が上がらなくなり遠く引き離されてやっと終わった。 と思ったら、
「そこからダッシュ。」 延々とバイクに追われてダッシュが続いた。
 自分たちとは基準が違う、大山道場での稽古のすさまじさが自然にでていたと思う。

後に、極真年鑑新潟支部の欄に、 自分が 内弟子 と載っていた事があった。 
  恐れ多いと、師範に、自分内弟子になってたんですが? と、聞くと、、「嫌なんか。。」 と返された。。
     (今更乍ら、、押忍、ありがとうございます。 )
 
夜は殆ど古町に付いていって飲み屋さん。酒じゃなくておねえちゃん。 
世間知らずの学生が師範にお金を出して頂いて毎夜、毎夜、社会勉強をさせて頂く。今から考えると、本当に有難い事だった。
社会に出てからは、研修所での門限破りなどもよくあり、不真面目な遊び人のように言われていたが、酒の席での失敗は殆ど無い。 深酒しても10年間遅刻も早退も全く無い。
 極真時代に、まじめ過ぎるからもっと遊べと、師範、先輩に遊ばせて頂いたお陰である。

 しかし、、当時は師範と一緒にそう言う店に行っても自由に振舞えるはずもない。。
     気楽にしろ、、と言われても、、、  師範に緊張していた。 んですよ。。