アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

俳句とは人間だよ

2020年10月01日 | Weblog
 校内俳句大会を、年2回開催していた中学校がありました。その大会の審査員を頼まれ、15年間審査をさせていただきました。…昨年度から、審査依頼がない…。昨年度からなのでコロナ禍とは関係なさそう。つまり、校内俳句大会をやめてしまったらしい。大変残念なことです。日本の教育には「俳句」が必要なのです。(理由を述べ始めると長くなりすぎますから割愛します)今や世界中で俳句が詠まれているのに…15年続いた俳句大会を無くしてしまう日本の学校がある…。批判はしませんが、「もったいない」。

 世界が、俳句のすばらしさに気づいています。
 セルビアでも俳句が盛ん。髪を刈ってもらいながら詠むのかねえ。なぬ?「理髪師はセビリア、セルビアと混同するな」って?「セビリア」と「セルビア」良く間違うんですよ。20年前のコソボ紛争の時、NATOの司令官だったかが、「セビリアを攻撃せよ」と命令して処罰されました。セビリアはスペインの都市。NATOの司令官でさえ混同するのですから、私の混同なんて可愛いもんです。
 ブルガリアでも俳句が盛ん。ブルガリアといえば、琴欧州(鳴門部屋の師匠)、碧山ですよね。琴欧洲も俳句を詠んだのでしょうか。
 琴欧洲は、「ブルガリアの実家にいた頃は毎日約2キロものヨーグルトを食べていた」。私は、毎朝200グラムのヨーグルト(自家製)を食べております。 私が琴欧洲ファンである一番大きな理由は、「自分は、親に仕送りするために相撲界に入った。日本人はどうして入門してからも親に仕送りをしてもらうの。おかしいね」との発言を耳にしたからです。日本人力士の現状に厳しい言葉を投げかけた。尊敬に値します。俳句の影響でしょうね。
 なぬ?「仕送りと俳句は関係ないでしょう」って?それが大あり。
 「俳句とは何か」ですが、古沢太穂(ふるさわたいほ)さんが言っているんですがね。「俳句とは、人間だよ」。この言葉、俳句をよく表しています。琴欧洲の場合、父親が事故に遭い一家の収入がなくなるという状況に追い込まれた。当然琴欧洲が働いてブルガリアの家族に仕送りをしなければなりません。「人間だもの!」。「俳句=人間=一家を支えるための仕送り」。

  外国語で、どうやって俳句を作るのか…外国語では「定型」は無理です。おおむね、「3行17音節」。もっとも、これさえも難しいですがね。季語はもちろん入れます。国が違いますから、季語も日本の季語に合わせることなどできません。「切れ字」はぁ…ないです。しかし、感嘆符を付けることは行われています。切れ字は感動の中心ですから、感嘆符でOKでしょう。
 台湾、ブラジルでは、日本語で俳句が詠まれています。当たり前と言われてしまうとそれまでですがね。
  文化交流大使としてフランスで俳句の指導に当たられ、今もフランスの俳句大会などに招待されている、「黛まどかさん」に言わせると…
 「フランス人の句は、季語が詠まれていなかったり定型でなかったり、基本を守っていないものが少なくない」
 私など、季語は入れていただかなければならないが、定型については目くじらをたてなくてもいいんじゃないか…。と、思いますが、黛さんは妥協を許さない。
 「型なしに句を作れば、短い詩に過ぎない。俳句は型があるからこそ、その中で自由に発想できる」…本気ですねぇ、黛さん。本気で現在のフランスの俳句を高めようとされている。こういう人がおられるのって、俳人の一人として(廃人じゃありません。もうすぐ廃人)嬉しく有り難い限りです。

  外国で俳句が詠まれているのは、実に嬉しいことです。ただ、普及については多くは望めません(日本でさえ衰退ぎみですから)。普及させようとして適当に妥協し、「俳句を単なる短い詩にしてしまう」これは阻止しなければならない。よく分かりました。
 なぬ?「アンティークマン自身は最近『寡作廃人』…もとい、『寡作俳人』になってしまっているんじゃないか」って?
 では、珠玉の名作のうちの一つを…(自分で珠玉の名作って言うなってがぁ)
 『粒ごとに少年の日あり山葡萄』