心のノート(小学校低学年向けは、平仮名で「こころのノート」)…文部科学省が2002年に、全国の小中学校に配布した道徳の副教材です。
この、心のノート、新政権では全廃の方向で進めている。どうして?理由は簡単、事業仕分けで「廃止」と結論づけたから。無駄なものなら切ればよい。だけど…心のノートって無駄なものなのか?
心のノートを語るには、日本の道徳教育の経緯からはじめなければなりません。
第二次世界大戦前は、「大日本帝国の臣民(国民)の育成」を目的にした、「修身」という教科(領域)がありました。
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、「修身は、軍国主義教育だ」として停止させました。1950年代、「良き社会人を育成するため」生まれたのが「道徳」。
「道徳は、修身が名前を変えて再登場したもの。日本を軍国主義へ導きたい人たちの陰謀…」このような考えで、猛反対する団体があった。その団体、今もあるけどね。団体に所属する教員は、「道徳反対」。そのため、「道徳の時間の道徳」は、道徳の授業をせず、レクリエーションの時間になる実態が続いた。
道徳教育は、あらゆる教育活動の中で行われるもの。時間割にある「道徳」は、「道徳の時間の道徳」ということになります。
近年、「道徳の時間の道徳」が不十分ながら行われるようになってきました。ここまで来るのにほぼ60年かかったわけです。「道徳の教員免許」というものはないので、先輩教員が新人教員に「道徳の時間の道徳の授業の仕方」を教えなければならない。しかし、その肝心の先輩教員が、道徳の授業をしたことがないから指導できない。こういうことを続けてきたのです。粗悪な教員は、「道徳反対」の旗印を隠れ蓑にして、道徳の授業研究をサボッてきたのです。
「道徳の時間の道徳」の授業をする教員に、授業力の差が大きくなるにつれ、非行の低年齢化が進んできた。少年による重大事件が相次いだ。文科省としても、何とかしなければならなかった。「教員間の道徳の授業力に差がありすぎまして…」では説明にも弁解にもならない。そこで登場したのが「心のノート」。授業力の差が少しでも縮までばの願いを込めて。初年度は、7億円かかった。2年目からは毎年3億円。今年で7年目。成果は出ているかって?客観的に診ることは出来ない種類のものです。
「心のノート反対」の人は…
・(心のノートは)事実上の国定教科書。ふざけんな!
・教育勅語や修身の色が濃い。教え子を戦場へ送るのか!
・多額の税金が用いられる。税金は有効活用しろ!
・授業ではほとんど使われていない。無駄だ無駄だ!
・学年末に家に持ち帰るだけのもの。アリバイ作りかコラ!
とんでもない悪いもので、無駄なもののように言われている。私としましては、たくさん反論したいが、一つだけ反論させていただく。
「教育勅語や修身」がどうして悪いの?日本人として、備えなければならない最も重要なものではないでしょうか!親や年長者を敬う。礼儀正しくする。弱いものいじめをしない…。そういう大切なものを蔑ろ(ないがしろ)にし続けたのは誰だ!そのお陰で現代の日本はどうなっている!尊属殺人が殺人事件の過半数!犯人は、経団連でも自民党でも親でもなく、道徳教育を反対してきたあなた方ですよ。カワウソにかじられなさい。
誤解のないように付け加えさせていただきますが、修身と道徳は違います。修身は、価値の押しつけでしたが、道徳の授業では価値を押しつけることはしません。この点が根本的に違うところです。
そして新政府は、道徳反対団体のお友達だから、心のノート廃止へ。反対団体は、「規範意識を重視した道徳は課題が多い」「内心の自由を侵す」と、今も主張。この考えを支持するから廃止。国民が選んだ新政府のすることだから廃止でもいいが、そのあと道徳教育をどうするの?ひ、ひょっとして…道徳も廃止!?
「全国学力テスト」「教員免許更新制度」も変わりますね。反対団体の主張がバンバン通りますなあ。(教員免許更新制度については、私としてはどうでもいいけど)
安倍内閣の教育再生会議では、道徳を「教科」にして教科書も作ろうという案が決まりかけた。道徳教育の強化が今の日本でいかに必要かということでした。新政権は、近年の教育改革路線を後退させる気か…。しかし、児童生徒に、道徳的思考力、道徳的判断力をつけなくてどうするの?それをサボルことこそ、子供達を戦場へ送ることになりませんか。
この、心のノート、新政権では全廃の方向で進めている。どうして?理由は簡単、事業仕分けで「廃止」と結論づけたから。無駄なものなら切ればよい。だけど…心のノートって無駄なものなのか?
心のノートを語るには、日本の道徳教育の経緯からはじめなければなりません。
第二次世界大戦前は、「大日本帝国の臣民(国民)の育成」を目的にした、「修身」という教科(領域)がありました。
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、「修身は、軍国主義教育だ」として停止させました。1950年代、「良き社会人を育成するため」生まれたのが「道徳」。
「道徳は、修身が名前を変えて再登場したもの。日本を軍国主義へ導きたい人たちの陰謀…」このような考えで、猛反対する団体があった。その団体、今もあるけどね。団体に所属する教員は、「道徳反対」。そのため、「道徳の時間の道徳」は、道徳の授業をせず、レクリエーションの時間になる実態が続いた。
道徳教育は、あらゆる教育活動の中で行われるもの。時間割にある「道徳」は、「道徳の時間の道徳」ということになります。
近年、「道徳の時間の道徳」が不十分ながら行われるようになってきました。ここまで来るのにほぼ60年かかったわけです。「道徳の教員免許」というものはないので、先輩教員が新人教員に「道徳の時間の道徳の授業の仕方」を教えなければならない。しかし、その肝心の先輩教員が、道徳の授業をしたことがないから指導できない。こういうことを続けてきたのです。粗悪な教員は、「道徳反対」の旗印を隠れ蓑にして、道徳の授業研究をサボッてきたのです。
「道徳の時間の道徳」の授業をする教員に、授業力の差が大きくなるにつれ、非行の低年齢化が進んできた。少年による重大事件が相次いだ。文科省としても、何とかしなければならなかった。「教員間の道徳の授業力に差がありすぎまして…」では説明にも弁解にもならない。そこで登場したのが「心のノート」。授業力の差が少しでも縮までばの願いを込めて。初年度は、7億円かかった。2年目からは毎年3億円。今年で7年目。成果は出ているかって?客観的に診ることは出来ない種類のものです。
「心のノート反対」の人は…
・(心のノートは)事実上の国定教科書。ふざけんな!
・教育勅語や修身の色が濃い。教え子を戦場へ送るのか!
・多額の税金が用いられる。税金は有効活用しろ!
・授業ではほとんど使われていない。無駄だ無駄だ!
・学年末に家に持ち帰るだけのもの。アリバイ作りかコラ!
とんでもない悪いもので、無駄なもののように言われている。私としましては、たくさん反論したいが、一つだけ反論させていただく。
「教育勅語や修身」がどうして悪いの?日本人として、備えなければならない最も重要なものではないでしょうか!親や年長者を敬う。礼儀正しくする。弱いものいじめをしない…。そういう大切なものを蔑ろ(ないがしろ)にし続けたのは誰だ!そのお陰で現代の日本はどうなっている!尊属殺人が殺人事件の過半数!犯人は、経団連でも自民党でも親でもなく、道徳教育を反対してきたあなた方ですよ。カワウソにかじられなさい。
誤解のないように付け加えさせていただきますが、修身と道徳は違います。修身は、価値の押しつけでしたが、道徳の授業では価値を押しつけることはしません。この点が根本的に違うところです。
そして新政府は、道徳反対団体のお友達だから、心のノート廃止へ。反対団体は、「規範意識を重視した道徳は課題が多い」「内心の自由を侵す」と、今も主張。この考えを支持するから廃止。国民が選んだ新政府のすることだから廃止でもいいが、そのあと道徳教育をどうするの?ひ、ひょっとして…道徳も廃止!?
「全国学力テスト」「教員免許更新制度」も変わりますね。反対団体の主張がバンバン通りますなあ。(教員免許更新制度については、私としてはどうでもいいけど)
安倍内閣の教育再生会議では、道徳を「教科」にして教科書も作ろうという案が決まりかけた。道徳教育の強化が今の日本でいかに必要かということでした。新政権は、近年の教育改革路線を後退させる気か…。しかし、児童生徒に、道徳的思考力、道徳的判断力をつけなくてどうするの?それをサボルことこそ、子供達を戦場へ送ることになりませんか。