アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

「電気テレビ」という表現 尊敬と感謝だね

2024年09月27日 | Weblog
 テレビで観たのですが…メキシコの食肉工場の一角の大きめの部屋。豚のもも肉が生ハムを作るように数十本ほどぶら下げてありました。
 そのもも肉に、「サシ」が、びっしりくっついておりました。 食欲旺盛なサシたちは、音を立てて肉を食べ、みるみる太っていきました。太りすぎて体重が重くなったものですから、もも肉につかまっていられなくなり、ポトポトと下へ落ちました。落ちたサシは集められ、生きたまま出荷。

 カフェのようなところで、トルティリャの具となり売られておりました。お客さんは、「生きているサシのトルティーヤ」を美味しそうにほうばっておりました。
「サシ」は、ウジ虫のことです。「ウジ虫」、腐肉に群がるハエの幼虫。食べるにあたって、「ウジ虫」はあんまりなので、美しく「サシ」と呼んでいます。

 更衣室で小耳に挟んだ会話
「釣りへ行ってくるよ。釣れたらお裾分けするよ」
「オ、オレ、死んだ魚を買ってきて食ベるからいらないよ」

 この会話を耳にする数日前、小学校1年生の学級で、担任が、「絵本いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日(内田美智子 講談社)」の読み聞かせをしていたのを聴いていました。
 ですから、この学級の7歳児たちの、「命をいただく観」と、更衣室で釣りの話をしていた40歳代半ばの男性達の、「命をいただく観」…。比較にはならないのでしょうが、7歳児たちの方が位相が高いと思いました。

 おそらく多くの大人たちは、「(生き物の命を)いただきます」と、感謝しておられると思います。
「死んだ魚を食う」…この表現には、「魚の命をいただく感謝」がありません。
「おどり食いの魚や、トルティリャにはさんだ生きたサシ以外」は、すべて死んだ動物のものです。ですから、いちいち、「死んだ魚、死んだ豚、死んだカエル…」などと、言う必要などありません。そういう修飾語をつけるのは、命を提供してくれた動物に失礼というもの。

 知人に、電気製品に「電気テレビ」「電気冷蔵庫」「電気ヘアドライヤー」「電気ラジオ」・・・など、いちいち「電気・・・」を頭にくっつける方がおられました。彼の場合、「ユーモア」で、電気をくっつけます。電気に対する、レスペクトも感謝も感じられます。「死んだ・・・」とおっしゃる方とは違います。

「いただきます」は、レスペクトを表する動作から生まれた言葉ですよね。
 そのレスペクトは、魚、肉はもちろん、野菜や果物も含めて、食材の「命」そのものに向けた言葉のはず。
また、食材を育てた人。収穫した人。流通に携わった人。食事を作った人。皆さんに対する、レスペクトと感謝の気持ちを込めた素晴らしい言葉です。

 我が家の3人の子ども達は、カトリック幼稚園でしたので、幼稚園での食前は…
「主、願わくはわれらを祝し、また主の御恵みによりてわれらの食せんとするこの賜物を祝し給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン」
 と、唱えてました。もっとも、我が家の食事では、「いただきます」だけでしたがね。
 今ですか?多分、「いただきます」は、必ず言っていると思います。アーメンは、言っていないね、きっと。それで、なんら問題ないのですがね。


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