父方の祖母の五十回忌。3月22日の祥当を前に妹弟が習合した。
祖母は1890年、越後国の生まれ。1908年かに北海道へ嫁ぎ、連れあいの死、残された子の養育、長男の死、自宅の火災とあいついだ。
日中戦争で、三男・四男・五男が応召したが、それぞれ帰還。太平洋戦争から戦後のモノ不足時代をしのいだ。
学校で裁縫を教えることもあって、同僚となった師範学校出の有識教員のことを、よく覚えていた。地域に人望のあった教員像を話して聞かせて、「勉強が大事」ということであったと、思う。
祖母の仏事に雪がつきもの。葬儀年回と雪に見舞われてきた。五十回忌を営むと申してきて、空を案じたが、おだやかな春の陽気であった。
祖母は1890年、越後国の生まれ。1908年かに北海道へ嫁ぎ、連れあいの死、残された子の養育、長男の死、自宅の火災とあいついだ。
日中戦争で、三男・四男・五男が応召したが、それぞれ帰還。太平洋戦争から戦後のモノ不足時代をしのいだ。
学校で裁縫を教えることもあって、同僚となった師範学校出の有識教員のことを、よく覚えていた。地域に人望のあった教員像を話して聞かせて、「勉強が大事」ということであったと、思う。
祖母の仏事に雪がつきもの。葬儀年回と雪に見舞われてきた。五十回忌を営むと申してきて、空を案じたが、おだやかな春の陽気であった。