皆さん、明けましておめでとうございます。
mixi関係ではお祈りいただいてありがとうございました。
年末、大晦日の日から、ずっと落ち着かなかったのです。
というのもダンナのおばあちゃんが亡くなったんです。
96歳でした。3日にお通夜に田舎へいくことになりました。
ダンナのおばあちゃんが亡くなったのは悲しい。ダンナはそのおばあちゃんにとっては初孫だったので思い出はたくさんあったでしょう。悲しみは人一倍あったはずです。(仏教徒とキリスト教徒の死生観は違いますが、人の死はこの世的にキリスト教徒でも悲しいです。)
悲しみと同時に、私たち夫婦にはある恐れがありました。
葬儀の時に私たちの信仰が理解してもらえるのかどうか・・・。
クリスチャンにとってお焼香、線香をあげるということは特別な意味をもちます。
仏教では焼香はなくなった霊魂への供養というこですが、聖書の中で「香」は「神への捧げもの」だからです。
その意味を考えると、私たちの信仰の核心に触れる部分なので、私たちはお焼香、線香を故人にあげるということはできません。(しかし、これはクリスチャン個人、個人にゆだねられていることなのでクリスチャンでもする人はいるようです。)
だから、いつもそのような時、代わりに故人の家族の慰めのためにお祈りをしますが、それが受け入れられるとは限りません。
ダンナの母が亡くなった時、焼香をしないこと、線香をあげないことでダンナは叱責をうけ、強要されたこともあったのです。
その時は近くの教会に行って祈ってもらい、私たちの教会の牧師に祈っていただいていました。そしてまさにそんな時、ダンナの兄弟たち(ノンクリスチャン)がとりなしてくれて、焼香をしなくても気持ちは同じなのだと説得していただいてたことを後で知りました。
その時は焼香はせず、献花という形をとることでことなきを終えました。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って、召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)まさに、聖書の御言葉のとおりでした。
そんな恵みを受けていたのに、また私たちの心はまたもや揺れていました。
私たちもできるなら、みんなと同じようにしたい。そうしたら、私たちも悲しんでいることがわかるだろうか?
でも、イエス様の愛を親せきみんなに知ってもらいたい、しかし、みんなと同じようにしないことで、かたくなな印象を与えてしまい、福音につながらなのではないか?
故人や親戚に失礼なのではないか?
他のクリスチャン達で焼香する人もいるのにあなたたちはなぜしないの?と実際に言われたときの顔が浮かびます。
いろいろと考えました。
でも、何を基準に考えるのか?それはイエス・キリストです。
礼に反するということは人間を基準にしたときのこと。
だから、私たちはやはり信仰を選ぶ。
そうしてお祈りを皆様にしていただいていたわけです。
お通夜当日の朝、とても不思議な夢を見ました。
キリスト教の異端の集団の中で私は他の人々と一緒にとらわれているのですが、その集団の集会でワーシップソングを歌っているのです。
それはよく知っているワーシップソング「我らの主にむかって」でした。
しかし、イエスを主と認めないその集団は「イエスは主」の部分を歌いません。その部分だけ黙っているのです。
それまで見ていただけの私はたまらずに「イエスは主」と賛美しているのです。
そして私は解放されるという夢でした。
大晦日からずっと思い気持だった私は、神様が励ましてくださっていると思えて、とても晴れ晴れとしてその日を迎えることができたのです。
ダンナと子供たちと田舎に向かう前に祈り、この夢に出てきた「我らの主に向かって」を賛美し、出発しました。
私はお通夜式にだけ参加し、旦那は2日続けて告別式まで参加しました。
施主の叔父がとても小さく見え、なんだかかわいそうに思い、涙がでました。
どちらの式も私たちがお焼香をあげることはありませんでしたが、親戚の方々は理解していただいたようです。
穏やかに、和やかにお式も、そのあとの会食も終えることができました。皆さんに嫌な思いをさせなかっただろうかと最後まで気がかりでしたが、親戚の皆さんにも、祈ってくださった皆さんに感謝しています!
皆さん、本当にありがとう!!
そして神様、主イエスよ、ありがとう!!
mixi関係ではお祈りいただいてありがとうございました。
年末、大晦日の日から、ずっと落ち着かなかったのです。
というのもダンナのおばあちゃんが亡くなったんです。
96歳でした。3日にお通夜に田舎へいくことになりました。
ダンナのおばあちゃんが亡くなったのは悲しい。ダンナはそのおばあちゃんにとっては初孫だったので思い出はたくさんあったでしょう。悲しみは人一倍あったはずです。(仏教徒とキリスト教徒の死生観は違いますが、人の死はこの世的にキリスト教徒でも悲しいです。)
悲しみと同時に、私たち夫婦にはある恐れがありました。
葬儀の時に私たちの信仰が理解してもらえるのかどうか・・・。
クリスチャンにとってお焼香、線香をあげるということは特別な意味をもちます。
仏教では焼香はなくなった霊魂への供養というこですが、聖書の中で「香」は「神への捧げもの」だからです。
その意味を考えると、私たちの信仰の核心に触れる部分なので、私たちはお焼香、線香を故人にあげるということはできません。(しかし、これはクリスチャン個人、個人にゆだねられていることなのでクリスチャンでもする人はいるようです。)
だから、いつもそのような時、代わりに故人の家族の慰めのためにお祈りをしますが、それが受け入れられるとは限りません。
ダンナの母が亡くなった時、焼香をしないこと、線香をあげないことでダンナは叱責をうけ、強要されたこともあったのです。
その時は近くの教会に行って祈ってもらい、私たちの教会の牧師に祈っていただいていました。そしてまさにそんな時、ダンナの兄弟たち(ノンクリスチャン)がとりなしてくれて、焼香をしなくても気持ちは同じなのだと説得していただいてたことを後で知りました。
その時は焼香はせず、献花という形をとることでことなきを終えました。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って、召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)まさに、聖書の御言葉のとおりでした。
そんな恵みを受けていたのに、また私たちの心はまたもや揺れていました。
私たちもできるなら、みんなと同じようにしたい。そうしたら、私たちも悲しんでいることがわかるだろうか?
でも、イエス様の愛を親せきみんなに知ってもらいたい、しかし、みんなと同じようにしないことで、かたくなな印象を与えてしまい、福音につながらなのではないか?
故人や親戚に失礼なのではないか?
他のクリスチャン達で焼香する人もいるのにあなたたちはなぜしないの?と実際に言われたときの顔が浮かびます。
いろいろと考えました。
でも、何を基準に考えるのか?それはイエス・キリストです。
礼に反するということは人間を基準にしたときのこと。
だから、私たちはやはり信仰を選ぶ。
そうしてお祈りを皆様にしていただいていたわけです。
お通夜当日の朝、とても不思議な夢を見ました。
キリスト教の異端の集団の中で私は他の人々と一緒にとらわれているのですが、その集団の集会でワーシップソングを歌っているのです。
それはよく知っているワーシップソング「我らの主にむかって」でした。
しかし、イエスを主と認めないその集団は「イエスは主」の部分を歌いません。その部分だけ黙っているのです。
それまで見ていただけの私はたまらずに「イエスは主」と賛美しているのです。
そして私は解放されるという夢でした。
大晦日からずっと思い気持だった私は、神様が励ましてくださっていると思えて、とても晴れ晴れとしてその日を迎えることができたのです。
ダンナと子供たちと田舎に向かう前に祈り、この夢に出てきた「我らの主に向かって」を賛美し、出発しました。
私はお通夜式にだけ参加し、旦那は2日続けて告別式まで参加しました。
施主の叔父がとても小さく見え、なんだかかわいそうに思い、涙がでました。
どちらの式も私たちがお焼香をあげることはありませんでしたが、親戚の方々は理解していただいたようです。
穏やかに、和やかにお式も、そのあとの会食も終えることができました。皆さんに嫌な思いをさせなかっただろうかと最後まで気がかりでしたが、親戚の皆さんにも、祈ってくださった皆さんに感謝しています!
皆さん、本当にありがとう!!
そして神様、主イエスよ、ありがとう!!