ツィメルマンのリサイタルに通うようになったのは今から34年前だったと記憶しています。
初めて生で聴いたツィメルマンの演奏は想像をはるかに超える素晴らしいものでした。
その後も来日される度に通いましたが、とても生で演奏されているとは信じがたいほどの音の美しさ、抜群のコントロール、洗練されたセンス、音楽の深さ。
それが前回聴きに行った時にこれまでと少し様子が違いました。
譜面台に楽譜を置くようになったのでそのせいかとも思いました。
集中しきれていないようなちぐはぐなテンポ、ディナーミク、間。
今日、久し振りに聴いた彼の演奏はその時に感じた違和感をさらに強く感じました。
もちろん素晴らしいピアニストであることは今も変わらないと思いますが、本来の彼の演奏とは違う気がしました。
左手のミスの多さ、ツィメルマンにはあり得ないくらい耳につくペダルの濁り、自然とは言い難いディナーミク、間の多さ。
単に私が全体像をつかめなかっただけかもしれませんが、断片的に聴こえてきました。
ツィメルマンの凛として突き進むエネルギーが手元の危うさで発揮しきれない。
どうしたのかな?
あら、また・・どうしたの?
驚いてしまい、音楽に集中しきれませんでした。
後半のショパンスケルツォ4曲は、2番のあと袖にいったん引っ込みなかなか出てきませんでした。このまま中止するかと思いました。
聴いていて気が気ではなくなり、2番が終わってしばらく出てこない間ふと見ると、膝の上に置いてあったプログラムとハンカチがない・・
あれ?載せてなかったかな?
バックの中に入れた?ない・・
よく見ると左肘の所までずり落ち、落下寸前でした・・
そんなことに気付かないくらいハラハラして私は聴いていたのでした。
戻って弾き出した3番はいつものツィメルマンに近い演奏でした。
わりと座ってすぐにポンと弾き始めるのですが、この時はしばらく弾き始めませんでした。
3番、4番ともご自分で譜めくりをして弾きました。
スケルツォ4曲は過去にも2度彼のプログラムで聴きました。
2番が弾き慣れ過ぎていて弾き流している感じがあり好きではなかったのですが、年月を経て以前とは変化していました。しかし、今日の演奏では本当はどう弾きたかったのかわかりませんでした。
初めてツィメルマンのスケルツォ4番を聴いた時の感動は忘れられません。
中間部の孤独感。運命を受け入れなければいけないと分かってはいるけれど、と悲痛なものを感じこの曲の悲しみを知ったのでした。
今日の演奏は悪くはありませんでしたが、孤独や悲しみより慈愛を感じるものに変化していました。
ともかく、最後まで弾いてくださったことに拍手。
確か2007年に交通事故に遭って脚を怪我したと記憶しています。
この年にザルツブルグ音楽祭に出演予定でしたが事故の影響でキャンセルされました。
ちょうどこの時にザルツブルグに私は滞在しておりまして、残念に思ったことを覚えております。命に別状なくホッとしましたが・・
これは想像でしかありませんが、何か身体が思うようにならない状態にあるのかもしれません。まだ60代前半ですし衰えるには早いと思います。
と、想像でこのようなことを考えるのも失礼な話ですが。
プログラムにツィメルマンのこのような言葉が載っております。
「大事なことは、できるかどうかではなく、極めるための意志があるかどうか、なのです。学ぶための十分な時間を取るかどうか、粘り強くいられるかどうか。私はこれまでの人生で諦めたことはありません。たとえ途中で10回転んでも。常に最後までやり遂げてきました」
弾けないものなどないと思えるツィメルマンが、リストのソナタをステージにあげるまで10年かかったと読んだことがあります。最初は弾けないと思ったそうです。
ドビュッシーの前奏曲集をパリのリサイタルで演奏するのには7年もの闘いを要したそうです。
両方とも日本のリサイタルで聴きました。
どちらも素晴らしいものでした。もちろんその時にはそのような話は知りませんでした。
ドビュッシーの演奏は今も心の中に残っています。
彼の演奏のおかげで私は今もピアノを続けられています。
リストの時は風邪をひいていらしたようで鼻が出てきて弾きにくかったと思いますが 、演奏には圧倒されました。
ツィメルマンさん、日本公演最終日お疲れさまでございました。
と、私が言うのも何様という感じですが・・
ゆっくりお体を休めて下さい。
と、私が言うのもまたまた何様?です・・
でも、ずっと聴いていたいので・・
初めて生で聴いたツィメルマンの演奏は想像をはるかに超える素晴らしいものでした。
その後も来日される度に通いましたが、とても生で演奏されているとは信じがたいほどの音の美しさ、抜群のコントロール、洗練されたセンス、音楽の深さ。
それが前回聴きに行った時にこれまでと少し様子が違いました。
譜面台に楽譜を置くようになったのでそのせいかとも思いました。
集中しきれていないようなちぐはぐなテンポ、ディナーミク、間。
今日、久し振りに聴いた彼の演奏はその時に感じた違和感をさらに強く感じました。
もちろん素晴らしいピアニストであることは今も変わらないと思いますが、本来の彼の演奏とは違う気がしました。
左手のミスの多さ、ツィメルマンにはあり得ないくらい耳につくペダルの濁り、自然とは言い難いディナーミク、間の多さ。
単に私が全体像をつかめなかっただけかもしれませんが、断片的に聴こえてきました。
ツィメルマンの凛として突き進むエネルギーが手元の危うさで発揮しきれない。
どうしたのかな?
あら、また・・どうしたの?
驚いてしまい、音楽に集中しきれませんでした。
後半のショパンスケルツォ4曲は、2番のあと袖にいったん引っ込みなかなか出てきませんでした。このまま中止するかと思いました。
聴いていて気が気ではなくなり、2番が終わってしばらく出てこない間ふと見ると、膝の上に置いてあったプログラムとハンカチがない・・
あれ?載せてなかったかな?
バックの中に入れた?ない・・
よく見ると左肘の所までずり落ち、落下寸前でした・・
そんなことに気付かないくらいハラハラして私は聴いていたのでした。
戻って弾き出した3番はいつものツィメルマンに近い演奏でした。
わりと座ってすぐにポンと弾き始めるのですが、この時はしばらく弾き始めませんでした。
3番、4番ともご自分で譜めくりをして弾きました。
スケルツォ4曲は過去にも2度彼のプログラムで聴きました。
2番が弾き慣れ過ぎていて弾き流している感じがあり好きではなかったのですが、年月を経て以前とは変化していました。しかし、今日の演奏では本当はどう弾きたかったのかわかりませんでした。
初めてツィメルマンのスケルツォ4番を聴いた時の感動は忘れられません。
中間部の孤独感。運命を受け入れなければいけないと分かってはいるけれど、と悲痛なものを感じこの曲の悲しみを知ったのでした。
今日の演奏は悪くはありませんでしたが、孤独や悲しみより慈愛を感じるものに変化していました。
ともかく、最後まで弾いてくださったことに拍手。
確か2007年に交通事故に遭って脚を怪我したと記憶しています。
この年にザルツブルグ音楽祭に出演予定でしたが事故の影響でキャンセルされました。
ちょうどこの時にザルツブルグに私は滞在しておりまして、残念に思ったことを覚えております。命に別状なくホッとしましたが・・
これは想像でしかありませんが、何か身体が思うようにならない状態にあるのかもしれません。まだ60代前半ですし衰えるには早いと思います。
と、想像でこのようなことを考えるのも失礼な話ですが。
プログラムにツィメルマンのこのような言葉が載っております。
「大事なことは、できるかどうかではなく、極めるための意志があるかどうか、なのです。学ぶための十分な時間を取るかどうか、粘り強くいられるかどうか。私はこれまでの人生で諦めたことはありません。たとえ途中で10回転んでも。常に最後までやり遂げてきました」
弾けないものなどないと思えるツィメルマンが、リストのソナタをステージにあげるまで10年かかったと読んだことがあります。最初は弾けないと思ったそうです。
ドビュッシーの前奏曲集をパリのリサイタルで演奏するのには7年もの闘いを要したそうです。
両方とも日本のリサイタルで聴きました。
どちらも素晴らしいものでした。もちろんその時にはそのような話は知りませんでした。
ドビュッシーの演奏は今も心の中に残っています。
彼の演奏のおかげで私は今もピアノを続けられています。
リストの時は風邪をひいていらしたようで鼻が出てきて弾きにくかったと思いますが 、演奏には圧倒されました。
ツィメルマンさん、日本公演最終日お疲れさまでございました。
と、私が言うのも何様という感じですが・・
ゆっくりお体を休めて下さい。
と、私が言うのもまたまた何様?です・・
でも、ずっと聴いていたいので・・