当然ながら、台南基地も米機による攻撃、爆撃の対象となり
P-38ライトニング(双胴の悪魔と呼ばれた)が度々現れた
(1992年のUKは ATI エアショー会場 にて私が撮影したP-38)
P-38は当時は米陸軍航空隊機(まだ空軍はなかった)で、中国大陸から出撃してきたものと思われる
地上にはデコイ(竹や木等で作られた航空機の囮)とタコツボ(個人用の塹壕)を作ったが
偽装網で隠された木造のデコイは激しく銃撃を受け、効果があったそうだ
ある日銃撃が終わったのでタコツボから出てP-38を見送った
するとインメルマンターンしたのか
突然戻ってきた機体は地上の人員めがけて機銃掃射を開始
父の体をかすめた銃弾は地面にプスプスと音を立てて突き刺さったという
(P-38は機首に20mm1門、12.7mm 4門 の固定銃を装備)
「映画のような煙は発生しない」、考えれば鉛弾が爆発しないのは当然のことだ
機上の任務中では、「死」など怖いと思わなかったが
油断して地上で襲われた、この時が一番怖かったそうだ
また爆撃に飛来した米?爆撃機(機種はB29との事だが不明)を撃墜したということで
機体の調査に出かけたことがあったそうだ
近くで見る米機のエンジンには油漏れ等はなく驚いたが
リベットやネジ類も、空気抵抗を押さえた沈頭鋲で製造技術に感服したという
機内を調べると何体かの遺体があり
通信席付近にあった、体がちぎれた搭乗員はなんと女性だった
当時の米軍にはWASP(Women Airforce Service Pilots)と呼ばれた女性パイロト部隊が存在したが
最前線へは女性をパイロット任務にはつけなかったという記述もある
例外はどの世界にもあることで、搭乗員としては存在したのか
たまたまこの日、仲の良かった男性搭乗員に誘われて黙認で搭乗中に・・・
想像を巡らしたらいくらでも可能性はあるものだ
米軍の記録には戦死した女性搭乗員は38名とあるが、この事例も入っているかは不明だ
米軍機からはこういったビラも撒かれた
台南で拾った実物ということだ(画像は裏写りしてしまった)
一気に終戦に飛ぶが
日々減っていく機体だったが、それでも「日本は絶対に勝つ!」と思っていたそうだ
8月15日の玉音放送は雑音だらけで何を言ってるのかわからなかった
戦争が終わったと聞いても誰も信用しなかったが
しばらくして敗戦が事実とわかると、上官の一人は機体のエンジンを始動させ
目の前で海に突っ込み自決した
残った銀河はわずかに6機 (自決機が含まれているかは不明)
約半年前に到着したのが53機だから、事故等もあったろうが
その戦耗率に驚く
やはり航空ファン誌の2010年1月号に
「台湾に残された海鷲達」という記事が載った
このリストについて父に聞いたが、存在も作った記憶もないとのこと
リストの内容から判断すると
台南に残された銀河の数は父の記憶とほぼ一致するのには驚いた
終戦から暫くすると、基地に残った航空機を中国側に引き渡すとの話が
「そんなことは絶対できない!」と航空機の部品を
特にエンジンのパーツ(気化器等)を外し、穴を掘って埋め隠してしまった
しかしそれもスグにみつかり、しっかりパーツの清掃整備をさせらて散々だった
さらに引き渡す機体には晴天白日旗をマーキングすることに(リンク先には銀河機を含め詳しく解説あり)
背中に番傘一つを背負った(銃ではなく番傘だとは・・・)役人が
日の丸の上に定規を使って丁寧に描かせた
チョッとでもはみ出たり曲がったりすると、厳しく叱責したという
あのマークはそう簡単には描けない事は想像に堅い
日の丸から少しズレて白日旗マークが描かれた
銀河の画像を以前どこかで見たことがあるが(上の航フ、イラストと同じ)
父が言うには機体日の丸の真上に上塗りさせられたとのこと
翌年船で鹿児島へ戻り、さらに郷里に戻れたそうだが
改めてこの話を聞くまでは話さなかった事もあわせて聞くことができた
しごきは毎日休みなく続き本当にきつかった、殴り殺された奴もいたし・・・
あれは戦死扱いにしたのだろうか、事故死なのか
志願兵は志を一つに故郷を出てきたのになぁ~
他にもそっと話してくれたが、国内の前線基地では・・・
「明日をも知れない若い男達だから、しかたないさ」で終わっちゃった事例? 事犯?も
こういう話はあるだろうと誰もが想像はしてるが、公の話で出ることはなかった
さらに俺達の給料はどうなっていたのか、上官はなぜか大金を持っていた
帰国する時持ち出せなくて、下級兵に鹿児島で渡すように預けたが
終戦で階級も関係ないし、だ~れも渡さなかったとか
他の戦争体験者からも似たような話を聞いた
歴史書には残らない小さな記憶、そんな記憶がもうすぐ消えていく
言い換えれば、大局の歴史は変わらぬとも
身の回りの歴史(記憶)は、いとも簡単に消え去り
書き換えさえも可能な時代を迎えようとしている
遥か昔からの歴史書がそうだったように
近年は記憶の一部でもファイル等として後世?に残し得ることができるのが唯一の救いだ
※コメントの表示までに少々時間を頂いておりますことをご了承下さい
P-38ライトニング(双胴の悪魔と呼ばれた)が度々現れた
(1992年のUKは ATI エアショー会場 にて私が撮影したP-38)
P-38は当時は米陸軍航空隊機(まだ空軍はなかった)で、中国大陸から出撃してきたものと思われる
地上にはデコイ(竹や木等で作られた航空機の囮)とタコツボ(個人用の塹壕)を作ったが
偽装網で隠された木造のデコイは激しく銃撃を受け、効果があったそうだ
ある日銃撃が終わったのでタコツボから出てP-38を見送った
するとインメルマンターンしたのか
突然戻ってきた機体は地上の人員めがけて機銃掃射を開始
父の体をかすめた銃弾は地面にプスプスと音を立てて突き刺さったという
(P-38は機首に20mm1門、12.7mm 4門 の固定銃を装備)
「映画のような煙は発生しない」、考えれば鉛弾が爆発しないのは当然のことだ
機上の任務中では、「死」など怖いと思わなかったが
油断して地上で襲われた、この時が一番怖かったそうだ
また爆撃に飛来した米?爆撃機(機種はB29との事だが不明)を撃墜したということで
機体の調査に出かけたことがあったそうだ
近くで見る米機のエンジンには油漏れ等はなく驚いたが
リベットやネジ類も、空気抵抗を押さえた沈頭鋲で製造技術に感服したという
機内を調べると何体かの遺体があり
通信席付近にあった、体がちぎれた搭乗員はなんと女性だった
当時の米軍にはWASP(Women Airforce Service Pilots)と呼ばれた女性パイロト部隊が存在したが
最前線へは女性をパイロット任務にはつけなかったという記述もある
例外はどの世界にもあることで、搭乗員としては存在したのか
たまたまこの日、仲の良かった男性搭乗員に誘われて黙認で搭乗中に・・・
想像を巡らしたらいくらでも可能性はあるものだ
米軍の記録には戦死した女性搭乗員は38名とあるが、この事例も入っているかは不明だ
米軍機からはこういったビラも撒かれた
台南で拾った実物ということだ(画像は裏写りしてしまった)
一気に終戦に飛ぶが
日々減っていく機体だったが、それでも「日本は絶対に勝つ!」と思っていたそうだ
8月15日の玉音放送は雑音だらけで何を言ってるのかわからなかった
戦争が終わったと聞いても誰も信用しなかったが
しばらくして敗戦が事実とわかると、上官の一人は機体のエンジンを始動させ
目の前で海に突っ込み自決した
残った銀河はわずかに6機 (自決機が含まれているかは不明)
約半年前に到着したのが53機だから、事故等もあったろうが
その戦耗率に驚く
やはり航空ファン誌の2010年1月号に
「台湾に残された海鷲達」という記事が載った
このリストについて父に聞いたが、存在も作った記憶もないとのこと
リストの内容から判断すると
台南に残された銀河の数は父の記憶とほぼ一致するのには驚いた
終戦から暫くすると、基地に残った航空機を中国側に引き渡すとの話が
「そんなことは絶対できない!」と航空機の部品を
特にエンジンのパーツ(気化器等)を外し、穴を掘って埋め隠してしまった
しかしそれもスグにみつかり、しっかりパーツの清掃整備をさせらて散々だった
さらに引き渡す機体には晴天白日旗をマーキングすることに(リンク先には銀河機を含め詳しく解説あり)
背中に番傘一つを背負った(銃ではなく番傘だとは・・・)役人が
日の丸の上に定規を使って丁寧に描かせた
チョッとでもはみ出たり曲がったりすると、厳しく叱責したという
あのマークはそう簡単には描けない事は想像に堅い
日の丸から少しズレて白日旗マークが描かれた
銀河の画像を以前どこかで見たことがあるが(上の航フ、イラストと同じ)
父が言うには機体日の丸の真上に上塗りさせられたとのこと
翌年船で鹿児島へ戻り、さらに郷里に戻れたそうだが
改めてこの話を聞くまでは話さなかった事もあわせて聞くことができた
しごきは毎日休みなく続き本当にきつかった、殴り殺された奴もいたし・・・
あれは戦死扱いにしたのだろうか、事故死なのか
志願兵は志を一つに故郷を出てきたのになぁ~
他にもそっと話してくれたが、国内の前線基地では・・・
「明日をも知れない若い男達だから、しかたないさ」で終わっちゃった事例? 事犯?も
こういう話はあるだろうと誰もが想像はしてるが、公の話で出ることはなかった
さらに俺達の給料はどうなっていたのか、上官はなぜか大金を持っていた
帰国する時持ち出せなくて、下級兵に鹿児島で渡すように預けたが
終戦で階級も関係ないし、だ~れも渡さなかったとか
他の戦争体験者からも似たような話を聞いた
歴史書には残らない小さな記憶、そんな記憶がもうすぐ消えていく
言い換えれば、大局の歴史は変わらぬとも
身の回りの歴史(記憶)は、いとも簡単に消え去り
書き換えさえも可能な時代を迎えようとしている
遥か昔からの歴史書がそうだったように
近年は記憶の一部でもファイル等として後世?に残し得ることができるのが唯一の救いだ
※コメントの表示までに少々時間を頂いておりますことをご了承下さい
祖父の兄、私の大伯父の足跡をたどったところ、この記事にたどり着きました。
祖父からは、大伯父は巡洋艦を母艦とする水偵乗りで、ソロモン海戦などを転戦した後、1945年1月25日に銀河の搭乗員としてリンガエン湾の米艦船攻撃中に被弾し、体当たりしたと聞いております。
部隊は攻撃第401飛行隊で、戦死を見届けた戦友の方が整備兵の方に「おれもどうなるか分からんから、同郷の君が彼の遺品を遺族に届けてくれ」と伝え、その通りとなったそうです。実家に遺品の軍刀が残っています。
長々と失礼しました。大伯父の姿を見れたような気がして、とてもうれしかったです。
大祖父様が401空だったとのことで
義父と同じ飛行隊だったようですね。
銀河は双発機ということで、ベテランの搭乗員が多く
大祖父様もその一人だったのでは。
若年兵だった義父は、いつまで経っても若年兵のままだったそうです。
当時の話は義父の家を訪れる度に聞いてきましたが
今では子供も大きくなり、訪問することが減ってしまいました。
若年兵だった義父も今年90歳を迎えます。
まだまだ元気な義父ですが、
少しでもその記憶を後世に残せたらと思っております。