仏教は奈良時代に朝廷が、繁栄・守護の神として導入したのに廃仏毀釈がなぜ起こったか? Wikipediaから引用する。
仏教が日本に伝来した当初は日本書紀の欽明・敏達・用明各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。廃仏の背景はどうも、仏教に対する反対ではなく、僧侶の権威が強すぎたことにあるようである。
その後、儒教がつよくなった、江戸になると、徳川幕府が、組織的に廃仏をやった。徳川光圀の水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。
明治維新では倒幕・尊王攘夷が思想の根幹で、欧米による日本のB植民地化への圧力が強まっており、その延長で仏教は外来の宗教であり、神道を国家統合の基幹にしようと意図した。その思想の根幹をなしたのが国学であった。慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。尊王攘夷の思想を支えたのが国学で、神道の国教化も手がけていき、靖国神社をはじめ全国の護国神社や、橿原神宮などという歴史的根拠のない神社を創設していった。
日本政府の神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。明治4年正月5日(1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。
結局、廃仏を止めたのはGHQで、、『天皇が天照大神の末裔で現人神』という思想が中心の神道を抑え、仏教やキリスト教に対する圧迫をやめさせた。これで廃仏は止んだ。