先端技術とその周辺

ITなどの先端技術サーベイとそれを支える諸問題について思う事をつづっています。

中国で信頼を取り戻した日本車

2018年08月19日 22時11分18秒 | 日記

日本車が中国でシェアーが急伸していることは聞いていたが、意外に中国で、日本車が好評である。

メーカー別に見ても、どこも急伸している。

 

この理由は、

1.中国から機能性や省エネが評価された。

2.車体を共通化することで安全性やコストを合理的にできた。

3.中国人のでざいなーを活用できて、中国人にあったデザインの車を提供できたことにある。

しかしながら、車による年の郊外がひどくなり、2012年あたりに中国政府はNEV(新エネルギー車)政策を出し、EV車屋PHV車には補助金を出している。これが急速にガソリン車からEV/PHV車にシフトしているが日本、欧米各社とも対応できておらず、早期の対応に見すればせっかくの中国で評価され始めた日本車、評価を落としてしまう。

 

 


冷戦時代の遺物である核シェルターで暮らす中国の人々、100万人

2018年08月19日 21時26分04秒 | 日記

 

ナショナル・ジオグラフィックスが報道していた:::::: 冷戦時代の遺物である核シェルターが主として学生や低所得者で今も使われているいう話であるが、日本にはそんな大規模な核シェルターは存在しない。複雑な心境になる。

 冷戦中の1960年代後半から70年代、中国では、核兵器が使用された場合に放射性降下物が生じ、街が荒廃してしまう事態が危惧されていた。毛沢東主席は中国国内の都市に、核爆弾の爆発に耐えられるシェルター付きアパートを建てるよう指示。程なくして、北京だけでおよそ1万カ所の地下シェルターが建設された。

 その後、中国が広い世界に扉を開いた80年代初め、中国国防部は、これを機に民間の家主にシェルターを貸し出すことにした。放射性物質から逃れる隠れ家として作られた空間を小さな住居に作り替え、利益を得たいという家主が多かったのだ。

 そして今、夜になると、100万を超す人たちが、北京の慌ただしい通りから地下の世界へと消えていく。大半が移民の労働者か、地方から出てきた学生たちだ。地上の世界にいると、その暮らしぶりを知ることはほとんどない。

 こうした状況に興味を抱いたイタリア人写真家のアントニオ・ファシロンゴ氏は、2015年12月、地下の暮らしを記録しようと北京にやって来た。地下シェルターは街のほぼ全域にあり、見つけるのは難しくなかったが、中に入るには大きな障壁があることが分かった。

ファシロンゴ氏がどこを訪ねても、このような核シェルターに外国人が入ることは法律で禁じられているという理由で警備員に追い返された。落胆したファシロンゴ氏は地元の役所に正式な申請書を提出したが、断られた。氏はついに、警備員が昼食で離れたすきに忍び込んだ。

核シェルターで暮らす中国の人々、冷戦時代の遺物に100万人 
中国、北京の魏公村地区。こうした建物の地下に核シェルターがある。(PHOTOGRAPH BY ANTONIO FACCILONGO)

 しかし、ファシロンゴ氏が中に入れるようになってからも、多くの住人は写真に撮られることを警戒し、中には困惑する人もいた。

「150人ほどに会いましたが、撮影に応じてくれたのは50人だけでした」とファシロンゴ氏は話す。「中には不安がっている人もいました。いい仕事に就いて、いいアパートに住んでいると、田舎の家族に伝えていたからです」

 実際、地下シェルターでの生活環境は厳しい。戦時や放射性物質の降下に備えて数カ月暮らせるよう作られただけあり、電気、配管、下水設備はあるが、適切な換気装置がないため、空気がよどみ、かび臭い。共同で使う台所やトイレは往々にして狭苦しく、不衛生だ。

 地元の法律は、最低限の居住スペースを借家人1人あたり4平方メートルと定めているが、無視されていることが多い。ファシロンゴ氏が撮った人たちの中に、4歳のジンジンちゃんがいる。祖母、父、弟と暮らす部屋は、ベッド1台が入るだけの狭さだ。この家の隣にはもっと広い空間があるが、オートバイの駐車場として使われている。「これまで訪れた中でも、最も貧しい場所の1つです」とファシロンゴ氏は話す。

 中国政府は2010年、家主がこうした状態を放置していることや、安全上の欠陥があることを問題視し、核シェルターやその他の格納スペースを住宅に利用することを禁じた。しかし、シェルターの一掃は難しく、今のところ成果は上がっていない。大きな理由は、地下シェルターの住人たちには、他に行き場がないことだ。

 この数十年で、北京の住宅価格は高騰している。住宅用不動産の価格は2017年の時点で1平方メートルあたり平均5820ドル(65万円弱)と、世界で3番目に高い都市になっているのだ。


マグネサイトで地球温暖化を止められる?!?

2018年08月19日 21時04分39秒 | 日記

カナダのトレント大学の研究者がマグネサイトにCO2を吸収する機能を発見。CO2の温室効果による地球温暖化を止められるかもしれない。地球の温暖化が、CO2温室効果によるか否かは確定していないようだが、北極、南極、アルプスや5千メートル以上の高山にある氷河、あるいは、ロシアなどにある凍土の融解はやはりCO2による温室効果が大きいと思う。それなら、このマグネサイトのCO2吸収機能は大いに期待できる。

マグネサイトに、急速にCO2を吸収させる技術を発表した。費用も安く大規模に運用できる可能性を秘めているこの技術は、使われなくなった油田やガス田で炭素を地下貯蔵する方法の炭素隔離と併用することもできる。

今回の研究結果はボストンで開催された「ゴルトシュミット・カンファレンス」でカナダのトレント大学のイアン・パワー(Ian Power)教授らが発表した。この技術を用いれば、CO2を大気から取り出してマグネサイトという形で長期的に貯蔵できる可能性がある。

カンファレンスでは、大気からCO2を取り出してマグネサイトにするための化学式も発表された。大気中のCO2を水に注入すると解離して炭酸ができる。そこから純マグネシウムが炭酸と結合してマグネサイト (MgCO3)になる。

現在のCO2を回収して貯留する技術のほとんどが、コストの高さや大規模化の難しさから実用化には向かない。しかし、今回発表された新しい方法を用いれば、自然界では数百年から数千年もかかるプロセスが、ラボ内では72日間で可能になる。また、この方法は低い温度下でも実行が可能だ。

マグネサイトは、重量の半分に相当するCO2を大気から除外できることが知られている。しかし、今回の研究はまだ実験段階であり産業規模で実現するためには、さらなるテストが必要だ。


廃仏毀釈はなぜ起こったか?

2018年08月19日 20時07分44秒 | 日記

仏教は奈良時代に朝廷が、繁栄・守護の神として導入したのに廃仏毀釈がなぜ起こったか? Wikipediaから引用する。

仏教が日本に伝来した当初は日本書紀の欽明・敏達・用明各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。廃仏の背景はどうも、仏教に対する反対ではなく、僧侶の権威が強すぎたことにあるようである。

その後、儒教がつよくなった、江戸になると、徳川幕府が、組織的に廃仏をやった。徳川光圀の水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。

明治維新では倒幕・尊王攘夷が思想の根幹で、欧米による日本のB植民地化への圧力が強まっており、その延長で仏教は外来の宗教であり、神道を国家統合の基幹にしようと意図した。その思想の根幹をなしたのが国学であった。慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。尊王攘夷の思想を支えたのが国学で、神道の国教化も手がけていき、靖国神社をはじめ全国の護国神社や、橿原神宮などという歴史的根拠のない神社を創設していった。

日本政府の神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。明治4年正月5日(1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

結局、廃仏を止めたのはGHQで、、『天皇が天照大神の末裔で現人神』という思想が中心の神道を抑え、仏教やキリスト教に対する圧迫をやめさせた。これで廃仏は止んだ。

 


祇園と八坂神社

2018年08月19日 14時18分40秒 | 日記

祇園という言葉は、釈迦が説法を行った寺院で、祇園精舎(正式名:祇樹給孤独園精舎)から来ており、天竺五精舎(釈迦在世にあった5つの寺院)の1つとされている。そしてそこに祭ってあるのは、牛頭天王で祇園精舎の守護神。

ここで混乱するのは、八坂神社が祇園社(京都市東山区の八坂神社)といわれ、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が祭られている。祇園社と言う八坂神社の寺院由来の呼び名と、祭神の日本の神である素戔嗚尊(スサノオノミコト)との関係。この疑問は、以下の解説で納得いく。祇園社の歴史を聞いて理解した。祇園社は貞観18年(876年)僧・円如が寺院を建立し、ほどなく祇園神が垂迹したものと結論づけている。祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合しこの神は牛頭天王に同一視されている。

更に八坂神社は、古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。当初は興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けたとどなたかがWIKIPEDIAに記述していた。これで神社と寺院の集合していた状況が分かった。

更に祇園社は当初は興福寺の末社であったが、10世紀末に戦争により延暦寺がその末寺とした。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。このころから祇園社は紀氏一族が執行家として世襲支配するようになる。

また、祇園祭という八坂神社の梅雨時の行事があるが、祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。

全国で梅雨時に行われる祇園祭も、素戔嗚尊を反映と守護神とする神社が発信する厄病除去と繁栄祈願の祭りだと理解できた。