旅の宿 吉田拓郎

2024年09月07日 | 音楽

私は土曜日の朝6時半ごろ、「徳光和夫 とくもり!歌謡サタデー」
「あの時代(とき)へ<ズームイン!歌のTOP3」というラジオ番組を聴いている。
今日は、1972年9月に日本で流行っていた歌を発表していた。
1972年7月に三角大福の自由民主党総裁選挙があったので、その年のヒット曲にしたようだ。
1972年は私が20歳のときです。
そのときの9月に一番流行っていた曲は、吉田拓郎の「旅の宿」だった。
その歌が流れてきたときにウォーキングをしていた私は、涙を流しそうになった。
私のそのころのことが、ワーっと押し寄せてきたのです。
23歳で亡くなったボクサーを目指していた龍彦と、ギターを弾いて「旅の宿」をよく歌っていた。

旅の宿 吉田拓郎


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阿久悠作品集Part.1

2024年08月15日 | 音楽

8月12日午前3時台の「ラジオ深夜便」(NHKR1)の〔にっぽんの歌こころの歌〕は、
「作家で綴る流行歌:阿久悠作品集Part.1(昭和40年代に発表された作品から)」でした。
私の20歳前後に流行った歌だった。
この歌のどれを聴いても、その頃の私の暮らしを思い出す。
真っ暗な中、イヤフォンで聴いていて、胸が熱くなった。
私の青春のBGMのような曲たちです。

【曲名 歌手 作曲者】
また逢う日まで  (尾崎 紀世彦   筒美京平)
白いサンゴ礁  (ズー・ニー・ヴー  村井邦彦)
白い蝶のサンバ  (森山 加代子  井上かつお)
ざんげの値打ちもない  (北原 ミレイ  村井邦彦)
どうにもとまらない  (山本 リンダ  都倉俊一)
せんせい  (森 昌子  遠藤実)
個人授業  (フィンガー5  都倉俊一)
絹の靴下  (夏木 マリ  川口真)
五番街のマリーへ  (ペドロ&カプリシャス  都倉俊一)
コーヒーショップで  (あべ 静江  三木たかし)
あの鐘を鳴らすのはあなた  (和田 アキ子  森田公一)

何日か後に、作家でつづる流行歌~阿久悠作品集Part 2  があるようです。



白いサンゴ礁/ズー・ニー・ヴー/1969

ざんげの値打ちもない  北原ミレイ 2008  Mirei Kitahara Zange no Neuchimonai

五番街のマリーへ / 高橋真梨子 (歌詞入り)



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和歌山南陵高等学校校歌

2024年07月22日 | 音楽

高橋源一郎の飛ぶ教室」(NHK-R1 7月19日(金)午後9:05放送)を聴き逃しで聴いたら、
(2024年7月26日(金)午後9:55配信終了)
番組の最初に、この4月から再出発した高校の校歌の話をした。
野球の予選会で流れた和歌山県南陵高校の校歌はレゲエだったのだ。
番組の中ほどでその校歌が流れた。
ノリのいい前向きな歌詞のいい校歌だった。

この曲は、レゲエアーティストのINFINITY16、横川翔、WASANの3名が作詞・作曲を手掛けた。
実は南陵高校はついこの間、前経営陣たちが撤退したばかりだった。
教職員への給与未払い、住民税の滞納、公共料金の未払い、さらにはパワハラ・セクハラ、
生徒への暴力、学校のお金を自分の会社へ流用など、悪行三昧で経営が破綻していたという。
新経営陣がなんとか再建しようと今年の4月より再スタートを切ったばかりなのだ。
前経営陣らの悪行によって県から経営改善の措置命令を受けて、生徒の募集を停止していて、
現在、南陵高校の全校生徒は3年生の18人のみなのです。
最初は学年に90人ほどいたが、どんどん転校していってしまい、この18人だけが残ったという。
野球部が10人、バスケ部が6人、吹奏楽部が2人の18人です。
来年、この高校は募集再開となり、多くの生徒でまた校舎が賑わうことになるでしょう。

学校法人南陵学園 和歌山南陵高等学校 校歌

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桑田佳祐「JAZZと歌謡曲とシャンソンの夕べ」

2024年06月13日 | 音楽

NHK MUSIC SPECIAL 桑田佳祐(NHK+)
6/13(木) 午後10:00-午後10:45
配信期限 :6/20(木) 午後10:44 まで

>2024年3月・4月、桑田佳祐が青山・Blue Note Tokyo / 
>神戸・クラブ月世界で行ったスペシャル ライブ「JAZZと歌謡曲とシャンソン
>の夕べ~R60」。今回、神戸で行われた公演の模様が、6月13日に総合テレビ
>で放送決定!45分に凝縮した特別番。会場となったのは昭和の風情が残る神戸の
>老舗・キャバレー。わずか150人程度の観客の前で行われた超貴重なスペシャル
>ライブとなった。(番組紹介サイトより)

ライブ「JAZZと歌謡曲とシャンソンの夕べ~R60」
「サン・トワ・マミ」(越路吹雪)
「東京ブギウギ」(笠置シズ子)
「男と女のお話」(日吉ミミ)
「恍惚のブルース」(青江三奈)
「リンゴ追分」(美空ひばり)
「L-O-V-E」
「灰色の瞳」(加藤登紀子・長谷川きよし)
「ヨイトマケの唄」(美輪明宏)
「銀座カンカン娘」(高峯秀子)
「ラストダンスは私に」(越路吹雪)
「君をのせて」(沢田研二)
「さよならをもう一度」(尾崎紀世彦)

なんの言葉もいらないですね。
私は、桑田佳祐の歌を、ただひたすら楽しみました。

 

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沢田研二 華麗なる世界

2024年06月09日 | 音楽

「沢田研二 華麗なる世界 永久保存版必至 ヒット曲大全集スーパースター」
(BS-TBS 夜9時~10時54分)を観た。
「危険なふたり」(1973)から曲が流れた。
それから「追憶」(1974)、「時の過ぎゆくままに」(1975)、「さよならをいう気もない」(1977)
「勝手にしやがれ」(1977)でレコード大賞を取った。
その20日後に、ザ・ベストテンが始まったという。
そのあと、黒柳徹子と久米宏の司会をするザ・ベストテンでの映像が沢山流れた。
かなり沢田研二の曲は、ザ・ベストテンの1位になっていたんですね。

私は1972年に20歳になっている。
そのとき私は、東京の本郷三丁目にあった試薬会社に勤めていた。
私が21歳ぐらいに沢田研二の歌は流行っていたんですね。
20代前半の頃に私は恋をして、何度か女性とつきあい、振られていた。
そういうときに、沢田研二の曲をよく聴いていた記憶がある。
阿久悠の書く詞がいいなと思っていた。
今日の番組を観ていてそんな昔のことをいろいろ思い出した。


沢田研二ヒットメドレー

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吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006 総集編

2024年05月27日 | 音楽

吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006 総集編

昨夜、ネットにつないでYouTubeの「はとやま爺ちゃんねる」に行くと、
そこにこれがあった。
昨日の九想話を書いてから、「つま恋 2006 総集編」を視聴した。
胸が熱くなりました。
このコンサートがあった2006年のときに私は、54歳でした。
しかし、歌われた曲の多くは私が20代のときのものです。
私の若いときのことがいろいろとよみがえりました。
仕事で悩んだり、友と酒を飲んでケンカしたり、恋した人に振られたり・・・。
そんな暮らしをしていたときのうしろで、この歌たちは流れていました。

動画の後半で、中島みゆきが出てくる。
「永遠の嘘をついてくれ」をうたう。
このひとは、私と同じ歳なんだよな。

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忌野清志郎 - 世界中の人に自慢したいよ

2024年05月17日 | 音楽

忌野清志郎 - 世界中の人に自慢したいよ

昨日、NHKのラジオを聴いていたらこの曲が流れてきた。
ある男の人のリクエスト曲だった。
その人はまだ新婚のようだった。
奥さんの誕生日の何日か前に、
「誕生日に何がほしい?」と妻に訊いたら、「何もいらない」といわれた。
「なので、忌野清志郎の『世界中の人に自慢したいよ』を妻に送りたいのでリクエストします」
というようなリクエストのメールだった。
それからこの曲が流れた。
この「世界中の人に自慢したいよ」は初めて聴いた。
いい歌だなと思った。
この曲を奥さんの誕生日に贈るなんて、素敵ですね。

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ピアニストのフジコ・ヘミングさん死去

2024年05月02日 | 音楽

ピアニストのフジコ・ヘミングさん死去、92歳アルバム「奇蹟のカンパネラ」が大ヒット

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/yorozoonews/entertainment/yorozoonews-15253813


> 世界的ピアニストのフジコ・ヘミングさん(本名=ゲオルギー・ヘミング・イングリット・
>フジコ)が4月21日に亡くなっていたことが分かった。92歳だった。フジコ・ヘミング財
>団が2日、公式サイトで発表した。
(よろず~ニュース)

フジコ・ヘミングさんの「カンパネラ」の演奏が私は好きでした。
その演奏に触発されて、63歳のノリ漁師の徳永義昭さんはピアノを弾き始めた。
それを取り上げた番組のYouTubeを観て、私もピアノを弾こうと思った。
そしてピアノを買った。
2020年02月29日九想話「ピアノを買う
ただ私は、いいかげんな練習をしているので、まったくうまく弾けるようにならない。
なんとかしないといけない。

【高音質】フジコ・ヘミング ”ラ・カンパネラ”など4曲 2020年11月「協奏曲の夕べ」Fuzjko Hemming 「La Campanella」【For J Lodlive】
ー合掌ー

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青春のアリス

2024年05月01日 | 音楽

今日の「ふんわり」(NHKラジオ第一)の10時台は、<堀内孝雄さんと聴く「アリス・ヒット曲集♪」> だった。
(2024年5月8日(水)午前10:55配信終了)

>10時台は【アリス・ヒット曲集♪】。堀内孝雄さんが、谷村新司さん、矢沢透さんと
>紡いだヒット曲の数々を、ご本人と共に、当時の裏話を交えながらお届けします。

「冬の稲妻」
「今はもうだれも」
「ジョニーへの伝言」
「チャンピョン」
「終秋符」
「昴」
これらの曲を流して、堀内孝雄がアリスの思い出などを話した。

アリスは、私の25・6歳の頃に曲がヒットした。
そのとき私は恋をしていた。
そして振られた。
よくアリスの曲を聴いていた。
アリスの歌を聴くとそのときのつらかったことを思い出します。

谷村新司・堀内孝雄 「遠くで汽笛を聞きながら」

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あの素晴しい愛をもう一度~2024Ver.

2024年04月26日 | 音楽

音楽ドキュメンタリー映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』本予告【公式】

音楽ドキュメンタリー映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」が作られた。

>STORY
>フォーク、ロック、ボサ・ノヴァ、トロピカル・サウンド、レゲエ、タンゴなど、
>時代時代に敏感に、誰よりも深く研究し取り入れていた加藤。その楽曲の幅広さ、
>意外性は一人の音楽家の手によるものとは気がつかないかもしれない。本作では、
>加藤の人生、生きた時代を捉えながら、加藤にどのような変化があったのかを、
>関係者らの証言や当時の貴重な映像で紐解いていく。

加藤和彦は、私が軽井沢で暮らし始めた2009年の10月16日に亡くなった。
62歳だった。
私はそのニュースを聴いて驚いた。
私が中学3年から憧れていたあの加藤和彦が、私が暮らす軽井沢で自殺した。
彼にとって私のことなんて知らないだろうが、私としてはなんか因縁を感じた。
私の近くで亡くなったことに、不思議な気持ちになった。

2009年10月17日九想話「加藤和彦が死んだ

私は、心の底から加藤和彦に憧れていた。
中学3年の11月から私は、高校への受験勉強を始めた。
アホな呑気な私でしたね。
受験勉強をするために私は夕食をすませると仮眠した。
そして11時ごろ起こしてもらって、それから受験勉強をした。
私の家は百姓の家で8畳の部屋が3つあるだけだった。
自分の部屋などはないので、時間帯をずらして私だけの空間を作った。
そのときそのころ始まった深夜放送を聴いて勉強をした。
正直なところ勉強にならなかった。
毎晩、ラジオの深夜放送を聴くために夜中に起きていたようなものだった。
そのとき聴いていたのはニッポン放送の「オールナイトニッポン」でした。
ニッポン放送アナウンサーの糸居五郎(月曜日)、斉藤安弘(火曜日)、高岡尞一郎(水曜日)、
今仁哲夫(木曜日)、常木建男(金曜日)、高崎一郎(土曜日)を聴いていた。
そして12月ごろからよく流れた曲が、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」だった。
毎晩毎晩聴いていた。
そして待ちに待ったその次のフォーク・クルセダーズの曲が、「イムジン河」だった。
いい曲だなと思ったが、すぐその曲は発売中止になった。
それから私は、フォーク・クルセダーズの曲を追いかけた。
私は必死にギターを弾けるようにがんばって、フォークルの曲をギターで弾いて歌った。
「戦争は知らない」
「花のかおりに」
「何のために」
「水虫の唄」

高校生のときは、やはり夕食のあと仮眠をとってラジオの深夜放送を聴いていた。
学校では誰も話す人はいないので、深夜放送を聴いていろんな人の考えを聴いていた。
そのころは「パックインミュージック」でしたね。
北山修は水曜日だったかな?
金曜日は、野沢那智と白石冬美です。
愛川欽也も聴いていた。
北山修の考え方には影響を受けた。

高校を卒業して手工ギターを作るところに弟子入りした。
ギター製作の修行のために東京に行ったのに、
毎晩毎晩兄弟子から誘われて宗教の集会に連れて行かれた。
もうそれが厭でイヤで、5月にギター工房を辞めた。
「世界一のギターを作るんだ」と夢を見てギター工房に弟子入りしたのに、
あの宗教のために私の夢は潰された。
もう、おれにはなんの希望もない、と茨城の実家で百姓を手伝って暮らしていたときに、
加藤和彦と北山修のこの曲が流れた。
なんか救われましたね。
人生をやりなおそう、と思った。

『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』エンディング曲「あの素晴しい愛をもう一度~2024Ver.」PV【2024年5月31日公開】

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