今日は、九想話に書くことが何も思いつかないので、
昔、ホームページ「九想庵」に載せていた小説を載せます。
30代のころの私と女房のことを書いてます。
原稿用紙11枚のものです。
今日は、九想話に書くことが何も思いつかないので、
昔、ホームページ「九想庵」に載せていた小説を載せます。
30代のころの私と女房のことを書いてます。
原稿用紙11枚のものです。
9月25日に図書館で文藝春秋9月号を借りられた。
図書館では雑誌の最新号は借りられない。
10月号が棚に並んだら、文藝春秋9月号を借りたいと思っていた。
でも芥川賞の作品が載る9月号は借りたい人が多いので、諦めていた。
そしてやっぱり文藝春秋10月号が発売になった日には、9月号は借りられていた。
それでも図書館に行くたびに文藝春秋の棚は見ていた。
そして9月25日に、奇跡的にそれはあった。
私ははじめに「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋 著)を読んだ。
双子のことを書いた小説だというので、この小説を先に読んだ。
ラジオの「高橋源一郎の飛ぶ教室」(NHK)に、朝比奈秋が出て話していた、のを聴いていた。
私の息子たちは双子だが、この小説の姉妹は結合双生児だった。
二人の女性がひとつの身体を共有していた。
私の頭のわるさなのか、この小説がよく分からなかった。
そして今週から「バリ山行」(松永K三蔵 著)を読んだ。
この小説は私の心にストンと入ってきた。
古くなった建外装修繕を専門とする新田テック建装に、内装リフォーム会社から転職して2年、
会社付き合いの苦手な波多は、同僚に誘われるままに会社の山岳部に参加するようになった。
波多は親睦を図る目的で気楽な山登りと思っていた。
あるとき、職人気質で職場で変人扱いされているベテラン社員妻鹿(めが)が、
山登りに参加するということだった。
彼はいつもは、あえて登山路を外れる難易度の高い登山「バリ山行」をしている男だという。
波多の転職から気にかけてくれた藤木常務が定年退職してから、会社の営業方針が変わって、
そのために会社は景気がわるくなった。
そのうちに、波多に早期退職の話などもくるようになる。
ある日、波多は妻鹿にお願いしてバリ山行に連れて行ってもらう。
あらすじはここまでにします。
私も転職を何度もしてきた男です。
会社内の人間関係のいろんなことに、心当たりがあります。
そういうわけで興味深く小説を読んだ。
この人の作品はこれからも読みたいと思った。
「サンショウウオの四十九日」は、もう一度読み返してみます。
桐野夏生の小説「抱く女」を読んだ。
NHKドラマ「燕は戻ってこない」の原作を読んで、桐野夏生の小説を読んでみたくなった。
1972年の女性の大学生活を描いている内容のようなので、読んでみた。
1972年は私が5月で、20歳になったときです。
沖縄が返還され、パンダの来日があり、札幌冬季オリンピックが開催されて、
赤軍派の浅間山荘事件もあった。
私は、2月に上京して本郷三丁目にある試薬会社に勤めていた。
4月から会社から徒歩で行けたお茶の水の予備校に入った。
昼休みにこの浅間山荘事件を映していたテレビを、観ていた記憶がある。
そのときは、駒込駅の近くの3畳間のアパート(家賃5,500円)で暮らしていた。
布団だけの暮らしで、テレビ・冷蔵庫などは持ってなかった。
(ギターだけはあった)
この作品は、当時の学生たちの気だるい日常や、女性の生きにくさを描いています。
主人公の直子は、男たちとの関係に流されながら、自分の居場所を探している。
70年代の若者たちの日常や、学生運動の影響などが描かれており、
その時代の空気を感じることができます。
まだインターネットもスマートフォンもない時代です。
女の子が煙草を吸っていた。
私も吸っていた(これで私は、膀胱がんになったのでしょう)。
私は大学には入れなかったが、21歳から大学生協で働くようになった。
日本女子大では多くの女子大生と話した。
1年後には東大駒場、2年後には東大本郷に勤務地が変わった。
そのときの大学の雰囲気を思い出させてくれた小説でした。
小説「燕は戻ってこない」(桐野夏生著 集英社刊 第7回 吉川英治文学賞 受賞)を今日読了した。
素晴らしい小説でした。
ドラマ「燕は戻ってこない」は、来週の火曜日が最終回です。
なので、小説の内容のことは書きません。
今日の夕方、私が小説「燕は戻ってこない」を読んでいるときに女房がいう。
「結末どうなるか教えてあげようか」
「え?知ってるの?」
「小説の最後だけ読んだの」と、いたずらっぽく私に妻がいう。
「だめだ、いうな」
「いっちゃおうかな」と私をからかう。
女房はいじわるな人間です。
小説を読み終わって、あ~あのような結末に作者はしたんだ、と感心した。
あの終わりかた、私は納得です。
でもドラマを、小説と同じ終わりかたにするかどうかは別だ。
シナリオライターはどうするんだろう?
来週の火曜日の最終回が楽しみです。
昨日の朝日新聞の「天声人語」を読んで、4月13日が吉行淳之介の誕生日ということを知った。
私は20代30代の頃、吉行淳之介の小説やエッセイを読んだ。
吉行淳之介の文章が肌にあった。
この人の人生に対する考え方が好きでしたね。
天声人語
吉行淳之介は、重さよりも、軽さを好んだ作家だった。1970年代にベストセラーになった随筆集『軽薄のすすめ』で、重厚さを「一も二もなく良し」とするような風潮に、苦言を呈した。「必要なのは重々しいコワモテ風の姿勢ではなくて、鋭い軽薄さである」
▼それから半世紀が過ぎた。人気作家が「カラカイと皮肉」を込めて発したという問いかけをいま、反芻(はんすう)してみる。この軽薄さに満ちた人の世で、あえて彼が重厚さを嗤(わら)ったのは、どうしてか
▼吉行は敗戦の1年前の夏、徴兵されている。20歳の学生だった。甲種合格の現役兵として、最前線に送られるのは間違いなかった。ところが、入営3日目に喘息(ぜんそく)がみつかる
▼急きょ除隊が許され、当然のように目の前にあった死が、パッと消えた。戦時下、人ひとりの生き死には、しごく軽く扱われる。やたら軍という権威がのさばる社会は重苦しく、硬直していた。彼はそれを滑稽な重さと表現した
▼かっこいい作家だった。軽妙洒脱(しゃだつ)でありながら、しっとりとした文章を書いた。三島由紀夫を評した「あれじゃ、疲れるだろうなあ」との一言にはうならされる。自分は「威勢のよい根性」ではなく、「ぐにゃぐにゃ根性」だと言っていた
▼きょう生誕100年。日に焼けて黄ばんだ文庫本を本棚から取り出し、ひとりページをめくる。いま読まれる作家ではないのかもしれないけれど、時代がかった物言いが勇ましく聞こえてくる昨今、その肩の力のぬき方が、妙に気になる。
昨日の天声人語はありがたかった。
忘れていたものを思い出させてくれた。
また吉行淳之介の小説を読んでみます。
今夜「夢ノ町本通り ブックエッセイ」(沢木耕太郎著 新潮社刊)を読み終えた。
よい本を読みました。
沢木耕太郎の本への気持ちがつまっているブックエッセイです。
この人の本に対する愛を感じました。
とくに山本周五郎に対する思いがすごかった。
私も20代の頃から山本周五郎が好きでほとんど読んできた。
こんどあらためて山本周五郎の小説を全部読んでみようと思った。
先日、私の町の図書館に山本周五郎全集があることを確認した。
今年は、山本周五郎を最初から読んでみます。
沢木耕太郎の子どものときからの読書量はすごい。
私なんて、19歳ぐらいからしか読書の習慣がないという、寂しい人間です。
そんなことを70歳を過ぎて反省してもしかたないですね。
これから少しでも多く本を読んでいきたいと思います。
今日の10時頃からのウォーキングで、らじるらじるの聴き逃しで
〔ラジオ文芸館アンコール〕「ちっちゃなかみさん」
作:平岩弓枝 朗読:出田奈々アナウンサ
(12月25日(月)午前1:05放送 2024年1月1日(月) 午前2:00配信終了)を聴いた。
私は、平岩弓枝の小説を読んだことがなかったので、
どんな小説なのだろう?と楽しみに聴いた。
向島で三代続いた料理屋の一人娘・お京も二十歳になった。
両親はお京の縁談を心配するようになった。
娘に縁談のことを話すと、お京には決めた相手がいた。
相手はかつぎ豆腐売りの信吉だった。
その信吉には、〝おかみさん〟のような人がいるようだった。
私は、ラジオの朗読を聴きながら何度も涙を流した。
いい小説です。
70歳を過ぎて私は、涙もろくなってしまいました。
これから平岩弓枝の小説を読んでみようと思いました。
私は、NHKの出田奈々アナウンサーの朗読が好きです。
ただこれは2024年1月1日(月) 午前2:00配信終了です。
YouTubeに2つの朗読がありましたので載せておきます。
ぜひ、「ちっちゃなかみさん」を聴いて下さい。
平岩弓枝作 「小っちゃなかみさん」 朗読 加賀佑治
【朗読】平岩弓枝「ちっちゃなかみさん」富永高敏・一人語り 33分
第169回芥川賞受賞作「ハンチバック」(市川沙央 著)を読んで私は、すごい小説だと思った。
ここ何年か芥川賞受賞作を読んでいるが、いつもがっかりしてきた。
しかしこの作品には打ちのめされた。
素晴らしい作品だと私は思った。
ハンチバック(せむし)状態で生きている女性。
先天性ミオパチーを患う主人公の思い。
ふつうの人の生活ができないで、生きている人の気持ちの叫びを感じた。
私の生きていて感じることなんて、まだまだ小さいと思った。
三島由紀夫が割腹前に高倉健の『唐獅子牡丹』を歌ったのはなぜか…
作家的表現を追求していたヤクザ映画に三島が見ていた「美学」
(集英社オンライン)
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/shueisha/trend/shueisha-175558
1970年の11月25日、私は高校3年生だった。
体育の授業が終わって購買部の前を通ったときに誰かが、
「三島由紀夫が死んだそうだ」といった。
私はその頃には、三島の小説を読んだことがなかった。
なので三島由紀夫のことは、何も知らなかった。
高校生のときに私は、ほとんど本は読んでなかった。
20歳になって東京で暮らすようになって、小説を読むようになった。
三島由紀夫の何冊かの小説を読んだ。
三島由紀夫の考え方などもある程度知った。
>軍刀と二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど必要な品々を携えて、
>楯の会の同士4人とともに車で大田区馬込の自宅を出発したのは午前10時過ぎ。
>それから環状七号線に出て第二京浜に入り、品川から中原街道を経て市ヶ谷の
>陸上自衛隊に向かった。
>だが時間が早すぎたのですぐに降りず、そこを二周することになった。その時
>に三島由紀夫が車内で、こんなことを口にしたという。
>「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽が
>かかるのだが、俺たちは意外に明るいなあ」
>高倉健の『唐獅子牡丹』を歌い始めた三島由紀夫に合わせて、四人の声が車内
>に響いていった。
三島由紀夫はどんな気持ちで「唐獅子牡丹」を歌ったのだろう?
>対人関係を堪え忍ぶことによって得られる果実は思いのほか小さく、
>ウマの合う相手と笑い合って過ごす時間がもたらす喜びの果実は驚くほど大きい。
この文章は、現在私が読んでいる「君がいないと小説は書けない」
(白石一文著 新潮社刊)の中の文章です。
この文章が今の私の心にすっと入ってきます。