タワマン地獄

2024年11月19日 | 会社・仕事関係

業者たちが目撃した“タワマン地獄”の現実 配達員「もうコリゴリ」元救急看護師「助けられる確率が10%低くなる」

>配送や引っ越し、救急など、さまざまな業者たちがタワーマンションに悲鳴をあげている。

>タワーマンションの宅配問題を解消すべく、配達員に代わってマンションの部屋まで食品
>を届けてくれる、デリバリーロボットへの期待が高まっている。フードデリバリー歴4年の
>ぐるぐるさんは、「配達員にとっては“タワマン地獄”だ。一般的なマンションやアパート
>と比べて神経を使い、時間もかかる」と嘆く。

私は16年ほど前に、東京都江東区にある地上45階建、54階建のツインタワーマンションに、
24時間勤務の警備員として1年ほど勤めていた。
24時間を1時間ごとに持ち場を替えて7人で勤務していた。
ウェスト棟の玄関、イースト棟の玄関、敷地内巡回、ウェスト棟巡回、イースト棟巡回、
防犯カメラ監視室、など1時間ごとに勤務交代していた。

玄関に立っていると引越し業者が来る。
その業者にエレベーターや通路の養生の指導などを、しなくてはならなかった。
引越し業者は大変だな、と思っていた。
タワーマンションはいいかも知れないが、私は人間が住むところではないと思う。
いろんな意味で不自然です。
私が玄関に立っていると、住んでいる奥様や男性がいろいろ話しかけてくる。
タワマン暮らしの喜びも悩みも語ってくれた。
そこに暮らしていることに満足している人もいたが、そうでない人もいた。

いがみあっていた夫婦がいた。
ある日、奥さんが引越し業者を呼んで自分の荷物を全部運んでしまった。
旦那は途方に暮れた、なんてこともあった。

東京湾が54階の展望室からよく見えた。
8月の東京湾の花火大会のときは、臨時勤務があった。
タワマンの警備員の仕事では、いろんな経験をしました。
それで思うのだが、やはりタワーマンションは、人間が住むところではないと。



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イヤな上司

2024年09月20日 | 会社・仕事関係

私が35歳で転職した(株)日本エルエスアイは東ソーの子会社(現在この会社は存在しません)で、
半導体を製造するときに必要なハンドラーという装置のメーカーだった。
日本エルエスアイが所沢に出来たばかりの武蔵野事業所の資材部には、私の上に課長と部長がいた。
その部長は東ソーの人でやさしい人だった。
課長も長いこと資材購買をやってきた人で、いい人だった。
課長が加工品の部品、私が購入品(メーカーの製造する部品)の担当をした。
加工品とは金属を図面どうりに制作してもらう部品で、購入品は電機メーカーの造る既製品です。
私がその会社に入って、これまで苦労してきたことがなくなった。
それまで勤めていた会社での資材購買は辛かった。
なにしろ仕事をくれる会社の決めた部品を集めることが大変だった。
日本エルエスアイはメーカーなので、あるメーカーの部品が納期がかかるときは、
技術部に行って同等の別なメーカーに簡単に替えてもらった。
私は、ほんとうにいい会社に、転職してよかったと思った。

新しい職場で楽しく仕事をしていたが、1年ほどして部長が東ソーに戻ることになった。
そして新しい部長が入った。
その部長のせいで、それからの私と課長は苦労した。
いろんなことに細かい部長だった。
ほとんど1日中笑い顔はなく、黙って仕事をしている部長だった。
そしてまもなく課長と私に、コストダウンを要求してきた。
現在の部品価格から10%コストダウンするように、という。
私は、そのときに付き合っている部品商社にコストダウンをお願いした。
すると1回目は、どの会社も10%のコストダウンに応じてくれた。
ところが部長は、コストダウンが終了してから3ヶ月後にまたコストダウンしろという。
さすがに課長も私も困った。
それでも、取引先にそれをお願いするしかなかった。
あの部長の下での仕事はつらかった。
私からすれば、部長のコストダウンの要求には無理があった。
なんの根拠もなくただコストダウンをしろ、というだけだった。
いくつかの部品商社からは、取引を断られることもあった。
ある程度の利益がない取引などは、お断りの会社は何社かあった。
部長は、資材部はこんだけコストダウンをしているんだ、ということを
本社の社長たちに言いたかったのだろう。
それにしても無理なものは無理なんです。

その部長があるとき飛行機で熊本に出張した。
帰りの飛行機の中で倒れて、そのまま病院に入院した。
なんでも脳に、ある菌が入ってそのようになったと、言われた。
そのとき私は課長という立場になっていた。
課長というのはかっこいいが、要するに残業代を出さなくていい社員ということです。
部長が入院したので、それまで部長がしていた仕事を私がすることになった。
部長は、武蔵野事業所の所長のような仕事もしていたので、
武蔵野事業所の1ヶ月の仕入れた部品の金額、各社員の作業時間の合計などを、
集計して本社に報告していたのです。
その仕事も私がやることになった。
それまでも私は毎日、夜の9時までは仕事をしていた。
お金が出ないので残業とはいいたくない。
自分の仕事を終えてから部長の仕事をやった。
部長は、紙に手書きして、電卓で計算していた。
私は、40歳の2月にパソコン通信がしたくてNECのノートパソコンを買っていた。
ほとんど家でそのパソコンで、パソコン通信を楽しんでいた。
部長の仕事をするには手計算では間に合わなかった。
部長は、昼間1日中ゆったりとその計算をしていてよかった。
私はLotus1-2-3を勉強して計算式を入れて、部品の金額や作業時間の合計を出した。
そうやっても月に何日かは深夜の3時ぐらいまで仕事をしなければならなかった。
あのとき私はどうやって生きていたんだろう?

そういう暮らしを3ヶ月ほどしていたら、部長の体調が回復して退院した。
1ヶ月ほど自宅療養をしてから会社に部長が出てきた。
そして、会社に出社してきた部長の私に対する態度が一変した。
私にコストダウンなんてことはいわないし、なにしろ会社での態度が丸くなった。
あァ・・・、人間なんてこんなもんだな、と私は納得した。
部長は、私が部長のしていた作業をパソコンを使って集計したと話したら、
さっそく部長もNECのノートパソコンを買った。
その頃、会社にはパソコンなんてものは存在しなかった。
私は、Lotus1-2-3や一太郎を部長に教えた。
まだそのときは、WindowsはなくてMS-DOSだった。

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「雪國 」吉幾三

2024年09月19日 | 会社・仕事関係



今夜、「歌謡プレミアム 特別版」(BS日テレ 20:00~21:54)
「吉幾三・山本譲二・細川たかし みんな一緒に半世紀スペシャル」を観た。
吉幾三が「雪國」をうたった。
「雪國」は、「俺はぜったい!プレスリー」「俺ら東京さ行ぐだ」などの
コミックソング路線だった吉幾三が、本格演歌路線への転向を図った曲です。
「雪國」は1986年に発売された。
そして1987年2月にはついにオリコン1位、「ザ・ベストテン」では演歌としては
2曲目(五木ひろしの「おまえとふたり」以来)の週間第1位となった。

私は1987年に在籍していた(株)K電子の忘年会でこの歌をうたった。
私はそのK電子が嫌いで、辞めたくてやめたくてしかたがなかった。
私が35歳のときでした。
吉幾三は、「雪國」をうたって本格演歌路線へ転向した。
私も、ちゃんとした会社に転職したいと考えていた。
所沢市にあるK電子は、東京の高田馬場にあったN電気の子会社だった。
電池メーカーのUPS(無停電電源装置)を下請けとして製造していた。
私はその会社(会社員30人)の資材購買部の仕事をしていた。
電池メーカーから翌月生産するUPSの注文が入る。
その部品を私は東京のいくつかの部品商社に発注する。
ICなどの半導体やコンデンサーやボリューム・その他の部品のうちの
いくつかの納期の長いことが分かると、
私は電池メーカーに連絡をして同等の他のメーカーにしたい、とお願いした。
メーカーが違うと同等品でもなかなか電池メーカーは、許可してくれなかった。
そんな苦労をしてなんとか製造に間に合う納期までに部品を集めた。
ところが肝心のUPSの心臓部になる電池が電池メーカーから入荷しなかった。
週1回やる工程管理会議で、いつも「なぜ電池が入らないんだ」と製造部や上の人から責められた。
電池メーカーから電池が入らないんだから、上の者が電池メーカーに話してくれればいいのに、
それはしないで資材購買担当者(私)を責めた。
そのときの会社の上の者は、電池メーカーのUPSを発注してくる部署とは仲良くしているが、
電池を支給してくれる部署には何も言えないようだった。
私は、そんな人たちと仕事をしたくなかった。
1988年の9月に、新聞にある会社の求人広告があった。
日本で上位の化学材料会社の所沢にある子会社が、資材購買担当者を募集していた。
その会社は、半導体製造のときに必要なハンドラーという装置を製造していたメーカーだった。
私は、装置メーカーだったら部品のメーカーが違っていてもすぐ許可が取れると考えた。
私は、下請けというものがつくづくイヤになっていた。
履歴書を郵送すると、1週間後に面接に来るようにと連絡があった。
そして面接をして、その会社に採用された。
その会社は本社が池袋、工場が所沢の他に熊本・松本・福島にあり、社員は100名ほどだった。
私はやっと下請けではなくメーカーの社員になれたのでうれしかった。

吉幾三の「雪國」を聴くと、あのときの転職のことを思い出す。
吉幾三は、コミックソング路線から本格演歌路線へ転向した。
私も、下請けの零細企業から、大会社の子会社だがメーカーに転職できた。
1988年の私の転職は、私の人生でかなり大きな出来事でした。
ですがその会社も、半導体不況で1998年には消滅してしまった。

♫ 雪國 ♫ 吉幾三


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ロピアがない

2024年09月04日 | 会社・仕事関係



私は風呂上がりに身体を拭くタオルが欲しいと思った。
(風呂上がりといっても最近は、ほとんどシャワーですが)
現在気に入って使っているタオルが2枚ある。
それは厚さも大きさも好きで、それと同じようなタオルが欲しいと思った。
最初にピオニーウォークのカインズに行った。
手頃なタオルがあったが、厚さがちょっと薄い。

次にニトリに行った。
以前よく食料品の買い物に行っていたロピアの隣です。
ロピアは7月末で閉店したので、それから一度も行ったことがなかった。
久しぶりに行ってみると駐車場がガラ空きだった。
ロピアが営業していたときは、平日でも駐車場がほとんど満車に近かった。
11時以降は駐車場の出口に警備員が必ずいた。
その駐車場が閑散としていた。
これではせっかく今年開店したニトリも、客が少ないのではないかと心配になる。

ロピアが営業していたときは、あるエリアでロピアとニトリがつながっていた。
今日はそこから、今のロピア跡がどうなっているか見てみたいと思っていたが、
まったく大きなカーテンのようなものでふさがれていたので見えなかった。
ロピアのあった場所はどうなるのだろう?
新しい店が入るのか?

ニトリでタオルを見たが、やはり私の気に入ったタオルはなかった。
それからピオニーウォークにも行ってみたが、買いたいタオルはなかった。
今日は、タオルは買わずにピオニーウォークをあとにした。

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第19回佐久の夏

2024年08月19日 | 会社・仕事関係




昨日は、佐久創造館の「第19回佐久の夏」が開催された。
佐久創造館のスタッフの人たちは、朝6時からその準備をした。
私もイスを運んだり、テーブルをセットしたりした。
外の会場にも用意をしたのだが、雨が降ったことに備えて体育館にも準備してあった。
昨年は、午後3時頃に雨が降ってきて、体育館に移動して「佐久の夏」を続けたそうです。
昨日は、朝のうちに雨が降ってきたりしたが、始まる9時半には快晴になった。
なので会場はものすごく暑かった。
私は、写真担当を任された。

私が佐久創造館に勤めていたときには、「佐久の夏」は私の担当だった。
私のときはどんな「佐久の夏」だったかと、佐久創造館ブログを見てみた。
2009年「第4回佐久の夏」は8月22日(土)に行われていて、8月23日から31日までのブログに書いてあった。
2010年「第5回佐久の夏」は8月22日(日)12時からは幕を開けた。
2011年「第6回佐久の夏」開催日の8月21日(日)は、朝から雨模様でした。
2012年「第7回佐久の夏」は8月26日(日)だった。
2013年「第8回佐久の夏」8月25日(日)、この日は大雨で体育館でやった。
2014年「第9回佐久の夏」は8月24日(日)です。
2015年「第10回佐久の夏」8月23日(日)は、朝1時間ほど雨だったようだ。
2016年「第11回佐久の夏」8月21日(日)に開催された。

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佐久創造館へ行く

2024年08月02日 | 会社・仕事関係

私は今日決めた。
佐久創造館で8月18日に開催される「佐久の夏」に行こうと。
私は、2016年9月までここに勤めていた。
来年の3月で佐久創造館は閉館する。
なくなってしまう。
最後の「佐久の夏」を見てみたいと思う。

佐久創造館ブログ 「第11回佐久の夏



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ロピア東松山セキチュー店閉店

2024年07月23日 | 会社・仕事関係



今日、1週間ぶりにロピア東松山セキチュー店に行った。
私は今日、甲類の焼酎4Lを買おうと思っていた。
ところが酒類のところに行くと、棚にアルコールの商品がなかった。
あ・・・そうかロピアは7月31日で閉店するんだ、とあらためて思った。
当然在庫は減らしていくだろう。
それにしても酒類が棚にまったくなかった。
1つの小さな棚に、日本酒の箱の酒が10本ほどあった。
私は昨年の12月から日本酒を飲まないようにしてきたが、
どうしてもロピアで酒を買いたかったのでひとつ買った。
ロピアは他の商品の価格も安かったが、酒類の価格は安かった。
それにしてもあちこちの商品棚に商品がなかった。

しかし、どうしてロピア東松山セキチュー店が閉店するのだろう?
利用者の私としては閉店する理由が分からない。
ピオニーウォークにあるスーパーの中では一番客が入っていたと思う。
なにしろ価格が安かった。
私の実感として坂戸市・東松山市あたりのスーパーの中では一番安い価格だった。
2016年にロピア東松山セキチュー店は開店した。
私が、軽井沢から引っ越してきた年です。
鳩山町に家を買って女房が住み始めたのが2014年からです。
私たちは、ロピアが出来て喜んだ。
食料品は必ずロピアで買ってきた。

もう閉店する7月31日にならなくても、私と女房はロピアには行かないだろう。
こんなに商品がないんでは、満足に買い物もできない。
それにしても私には、なぜロピア東松山セキチュー店が閉店するか分からない?
ロピアのホームページには、今でもロピア東松山セキチュー店が閉店することも書いてない。
他の店の閉店は書いてあるのに。

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TSMC熊本工場開所

2024年02月26日 | 会社・仕事関係

TSMC熊本工場開所で、熊本県の菊陽町は大変なことになっている、というニュースを観た。
人があふれ、道路には車が増えてトンデモないことになって、
町の様子が変わってしまっているようです。

私は38歳から45歳まで、半導体関連装置製造の会社に勤めていた。
景気はよかったですね。
38歳で採用された会社は東ソーの子会社で、従業員80人ほどだった。
2年ほどで三菱商事に売られ、2つの子会社が合併して120人ほどの会社になった。
その後、三菱商事の3つの会社が合併して、200人ほどの会社になった。
池袋に本社があり、東京の小平市、埼玉の所沢市、熊本、福島に工場があった。
私は資材購買の仕事をしていた。
そのときは、日本がバブル景気で会社の売り上げは、最高に良かったときでした。
私が部品を購入している部品商社の営業マンたちがいう。
「半導体は産業の米です。この会社は大きくなるばかりです」
そのときの私の会社は、日本の半導体メーカーに装置を納めていた。
それとは別に、アメリカのインテルが一番の客だった。
私は毎日、インテルにメンテナンス用の部品を送っていた。
台湾、韓国の半導体メーカーにも装置を売っていた。
しかし半導体バブルがはじけ、あっというまに私の会社は装置が売れなくなり、そして消滅した。

TSMC熊本工場の発展を今の私は祈るだけです。

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女房仕事を辞める

2023年11月28日 | 会社・仕事関係

今日の12時に、妻にLINEを送った。
「本を返しに図書館に行ったら、Yさんに会った」
Yさんは、私が11月18日まで働いていたシルバーの職場で一緒に働いていた人です。
この人は埼玉県でかなり素晴らしい女子高校の校長をしていた人でした。
「Yさんとは、ずっと、つきあっていければいいね」
と女房からの返信があった。そのあと、
「12月15日で、会社辞めることにしたよ」
とあった。
妻は、脚の骨折をしたあと通勤2時間が辛い、それで「もう、会社を辞めたい」といっていた。
私とすれば、もっと前に辞めてもいいと考えていた。
上司にいって、認められたという。

女房にあらためて「ありがとう」といいたい。
鳩山町から東京の地下鉄有楽町線の江戸川橋駅までの通勤はたいへんだったと思う。
会社に入った頃は埼玉の所沢に住んでいた。
そして、東京の清瀬に引っ越した。
このとき私は軽井沢に移った。
2013年12月に今住んでいるこの家を買って、翌年の2月から2時間の通勤を妻はしてきた。
10年近く2時間の通勤をしてきた女房はすごいと思う。
仕事を辞めたら、しばらくのんびりしてもらいたい。

 

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柿をもらう

2023年11月21日 | 会社・仕事関係



先週の木曜日、シルバーで働く同じ職場のYさんから柿をいただいた。
美味しかったです。
Yさんは、県立K女子高校の校長先生をしていたと聞いている。
そのような仕事をしていたのに腰の低い、心優しい人でした。
私はその職場の1人の人の行動が我慢出来なくて、11月でそこを辞めた。
Yさんと離れることがさびしいです。

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