私がいくつのときだったのだろう。
おそらく23、4歳頃だった。
日記をいい加減に探したら、
そのときのことが見つからない。
必死になって探せばあるのかどうか…。
20代の日記は、大学ノートで10冊ぐらいあり、
それをきちんと見ている時間がない。
毎日書いていたわけではないが、
ほぼそれに近い状態で書いていた。
ウニャ・ラモスのケーナのコンサートが、
渋谷の青山学院のなんとかホールであり、
それに私は行った。
ウニャ・ラモスは、サイモンとガーファンクルの
「コンドルは飛んで行く」のバックでケーナを
吹いていた(たしか)人で、
私の憧れのケーナ吹きだった。
コンサートのことは別に書くとして、
私が坐った席の隣は女性だった。
私はその女の子をずーっと意識しながら、
ウニャ・ラモスのケーナを聴いていた。
コンサートが終わって、そのコに声をかけた。
あらためて正面から見ると、可愛いコだった。
コンサート会場を出て、二人で喫茶店に行った。
何を話したか覚えていない。
そのあと「おれのケーナを聴かせてあげる」
なんてこといって、代々木公園に行った。
夜の代々木公園で私はケーナを吹きましたね。
今考えると、恥ずかしくなります。
ただただそのコに、
いいかっこしたいということがみえみえです。
よく見ると、彼女はザックを持っていた。
「何それ?」と訊くと、
あの頃あった夜行列車「銀河」に乗って、
一人で京都に行くという。
「銀河」は各駅停車で岐阜まで行く電車だった。
「なんで一人で京都へ?」なんて私は訊かなかった。
おそらく失恋でもしたのだろう。
私はあつかましくも、
「おれも行っていいかな」といった。
「いいよ」と彼女がいってくれた。
私たちは代々木公園を後にして、東京駅に向かった。
京都に着くまで私たちは何を話したのだろう。
岐阜までも、
乗り換えてから京都までも鈍行列車だった。
京都で最初に降りたところは嵯峨野だったように思う。
嵯峨野のぽつんとあったうどんやでうどんを食べた。
銀閣寺なんかも行った。哲学の小道も歩いた。
あとはあまり覚えていない。
私は笑顔の可愛い女性と、
京都を歩いてることが不思議だった。
前日までは駒込の汚い四畳半のアパートで
自分の孤独を嘆いていたのだ。
嵐山にも行った。桜が満開だった。
ボートに乗った。
そこでも私はケーナを吹いた。
帰りは新幹線で帰ってきた。
行くときの「銀河」では、
私の体からきっちり数センチ離れて坐っていた彼女が、
新幹線では私の肩にもたれて寝ていた。
「いろり端」に、
京都の思い出を書く、なんて書いてしまった。
そのときのことが書いてあるかなと思って
日記帳を見た。
何冊かのうちの1冊をなにげなくとった。
大学ノートの表紙に「一人言 3」と書いてある。
'78.4/12~'80.1/13までの日記だ。
なんとその一番最初のページに、
京都に行ったことが書いてあった。
しかし、「いろり端」に書いた京都の思い出とは
違うときのことだった。
母と兄と3人で行ったときのことが書いてあった。
このことを私はすっかり忘れていた。
私が25歳のときのことだ。
日記に書いてある順に、行ったところを記す。
京都タワー、東本願寺、三十三間堂、清水寺、
平安神宮、八坂神社、円山公園、祇園、二条城、
金閣寺、竜安寺、嵐山、銀閣寺
兄が母と2人で行く旅行だったが、
私がそれについていった。
円山公園のしだれ桜が綺麗だったと書いてある。
思い出した。
あの夜、花見の人混みの中を
おふくろと兄と3人で歩いたことを。
そのあと、祇園でうどんすきを食べた。
> 兄が泣いた。母がトイレにいってるときに。
> 「こんなにかあちゃんが喜んでくれるんなら、
> もっと早くつれてくるんだった」
こんなことが日記に書いてある。
ほんとうに兄は“おふくろ思い”だ。
今でも兄は、毎日「ひだまりの家」に行っている。
先日電話で話したら、
最近は、
兄のことも母は分からなくなってきたらしい。
翌日、母と兄は奈良に行った。
私は仕事を3日もさぼれないので、
東京に帰ってきた。
もう忘年会なんてものの話の出る時期になりました。
しかし、今年のわが社の忘年会は、
へんてこなことになりました。
これまで会社の忘年会は、
近くの料理屋の宴会場でやっていた。
でもそこは駅から離れていて、
参加するには車で行くしかない場所だった。
それで、会社まで来る料理屋の送迎バスか、
自分の車で行くことになる。
忘年会ですからアルコールが苦手な人以外は、
酒を飲んで酔っぱらう。
自分の車で来た人はもちろん、
送迎バスで会社まで戻る人も、
それから先自分の車で家に帰る。
全員酒酔い運転です。
(うちの会社は駅から離れていて、
ほとんど車かバイク通勤です)
私はそれはしたくないので、
酒の飲めない同僚に家の近くまで来てもらって、
一緒に行っていた。
今年、わが社と同じような車のウィンドウガラスの
加工をしている会社の社員が、
酒酔い運転で人身事故を起こし、それが問題になった。
それで会社としても
去年のような忘年会をしないことにした。
10月に忘年会のアンケートをとった。
「東京でやる」「伊香保温泉」「浜名湖でウナギを食べる」
「ボーリング大会」「忘年会をやらない」
私は「忘年会をやらない」にした。
ボーリング大会の賛成者が19人で一番だった。
しかしなぜか、「浜名湖でウナギを食べる」になった。
上のものがどうしてもウナギを食べたかったようだ。
参加者は15名だ。全社員の半数も行かない。
私は会社の人たちと酒など飲みたくないが、
浜名湖が見たくなり参加することにした。
しかし、会社のお金を使ってやるっていうのに、
へんな忘年会です。みんなブーブーいっている。
私としては、今年はどこにも行っていないので、
ちょっとした旅にしたいと思っている。
11/10土曜日、東京駅で集合し浜松まで行く。
そして忘年会をやって、午後2時頃現地解散になる。
それからひとりでぶらぶらして、
出来たら一泊して浜松あたりを歩いてみよう、
と思っています。
21歳の夏休みには、四国を旅した。
神戸からフェリーに乗り、小豆島に渡った。
そこまでは考えていたが、
そのあとの予定は何も決めてなかった。
フェリーできれいな京都の女の子と話せた。
京都弁っていいな、と思った。
小豆島で、ひとり旅をしていた男と気が合った。
高校を中退して旅をしているといっていた。
その男と一緒に観光していて、
2人連れの女の子に声をかけた。
大阪から来たOLだった。
女の子たちは、ユースホステルに泊まるといった。
夕方、彼女たちと別れてから、
おれたちはそのユースホステルに電話した。
「男2人泊まれるか」と。
夕食のとき、すまして食堂に坐っていると、
彼女たちが気づいて、
「あら、あなたたちもここだったの」
と驚いていた。
8時からのミーティングは楽しかった。
いろいろなゲームをし、歌をうたった。
東北のユースホステルでもそうだったが、
おれはケーナを吹き、ギターを弾き、
なぜかその場の中心にいてしまう。
翌日は、4人で高松までフェリーで行き、
壇ノ浦とか栗林公園に行った。
そしてとうぜん別れ間際に、
彼女たちの泊まるユースホステルをさりげなくきいた。
「さよなら」といってからすぐに、
そこに電話をする。
夕方、「また会いましたね」と
何気ない顔して再会した。
高松はその夜お祭りだった。
4人で見に行った。
たくさんの山車が出てきれいだった。
男とは次の日別れた。
悲しいけれど、女の子たちとも離ればなれになった。
私は、同じ職場にいた友人の実家に行って
泊まったと記憶している。
東京で働いていたとき、「四国に行ったら行くよ」
といっていた。
しかし、2日後女の子たちが高知のユースホステルに
泊まることをしっかりきいていた。
とうぜんおれは、そこに泊まった。
高知もお祭りだった。
高知では桂浜に行って、坂本龍馬の像を見た。
徳島では、阿波踊りを踊った。
そのとき泊まったユースホステルの連だった。
女の子たちは、阿波踊りが旅の目的だったらしく、
浴衣を持ってきていた。
おれは、にわか覚えのかけ声をかける。
とうぜん、酒は入っている。
ユースホステルでは飲めないから、
どこで飲んだのだろう?
「笹山通れば」とおれが叫ぶと、
「笹ばかり」と他のみんなが答える。
「石山通れば」とおれ。
「石ばかり」とみんな。
「猪、豆くって、ホォーイホイホイ」
「エライヤッチャ、エライヤッチャ、
ヨイヨイヨイヨイ」
これを何度も何度も繰り返した。
楽しかったなァ。
女の子2人の旅は、徳島までで終わりだった。
大阪で会うことを約束して別れた。
そのあとおれは、足摺岬に行った。
その頃、ウィークエンドの「岬めぐり」
(作詞山上路夫 作曲山本厚太郎)
という歌が流行っていた。
足摺岬に向かうバスの中で、
おれは、何回も何回も口ずさんでいた。
♪みさきーめぐりのーバスはーはしる~
ぼくはーどうして~いきてーいこう~
その年の始め、おれは大失恋をしていた。
それから松山や道後温泉にも行った。
ぼっちゃん電車(だったかな)
のあるところにも行った。
そこは正岡子規や夏目漱石の記念館(?)
だったのかな。忘れました。
帰りには大阪に一泊して、
約束通り、あの女の子たちと会い、飲みました。
楽しい、愉快なひとり(?)旅でした。
私は若いとき、日本中を旅した。
会社の夏休みを利用して長い旅をしたのです。
20歳のとき、初めて旅をしたのが東北だった。
リュックに着替えを詰め、秋田に行く夜行列車に乗った。
次の日、秋田に着いて、男鹿半島などを見て、
夜はオールナイトの映画館に泊まった。
青森では、合浦公園の海水浴場の脱衣場に泊まった。
電車で知り合った男と2人で泊まったのだが、
そいつの顔は翌日腫れていた。
寝てるとき蜂に刺されたらしい。
太宰治の小説「津軽」に憧れ、津軽半島に行ったときは、
太宰治ゆかりの旅館と書いてあったところに泊まり、
ひとり熱燗を飲んだりした。
津軽半島の先端から見た日本海に沈む夕日はよかった。
俳句のようなものをつくり、
看板の裏側に落書きしてきたが、
今もあるかな。あるわけないよな。
青函トンネルを掘っている人たちの宿舎があったな。
十和田湖にも行った。
奥入瀬渓流の流れの音を聴きながら、
ケーナを吹いた。気持ちよかったなァ。
下北半島は、水上勉の「飢餓海峡」に出てくる、
ああ…、名前が出てこない。
そこが見たくて行った。
盛岡で下車して城跡に行って、啄木の歌碑を見た。
仙台では、なぜか楽器屋で、
今も吹いている木製のリコーダーを買った。
福島が最後で、猪苗代湖にある
「野口英世記念館」に行った。
生家がそれになっているんだけど、
便所の粗末さが、私の実家のものと一緒なので
親しみがわいた。
東北、四国、山陰、木曽飛騨富山、九州、北海道
と25までひとり旅をした。
次は、四国の旅を書きます。
友人から、変形のハガキがきた。ニューヨークからだしたもので、消印が
「AUG 10 2000」となっているので、三週間まえに出されたよう
だ。
ハガキには、「Les Miserables」「CATS」「BEAUTY AND THE BEAST」
「Miss Saigon」などのポスターがあり、「BROADWAY NEWYORK」と書いてあ
る。
文面を読むと、友人は、精力的にニューヨークをあっちこっち見て回って
いるようです。
いいな。私が一番行きたいところが、ニューヨークです。
ぐ・や・じ・い
友人から、変形のハガキがきた。ニューヨークからだしたもので、消印が
「AUG 10 2000」となっているので、三週間まえに出されたよう
だ。
ハガキには、「Les Miserables」「CATS」「BEAUTY AND THE BEAST」
「Miss Saigon」などのポスターがあり、「BROADWAY NEWYORK」と書いてあ
る。
文面を読むと、友人は、精力的にニューヨークをあっちこっち見て回って
いるようです。
いいな。私が一番行きたいところが、ニューヨークです。
ぐ・や・じ・い
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8月の九想話
8/1 結婚式の司会
8/2 ラジオ体操
8/3 母
8/6 2つの顔の母
8/8 たった1日で
8/20 夏休み
8/25 今昔文字鏡
8/27 朝顔
8/31 NY