結婚して住んだアパート

2018年05月21日 | 健康・病気

5月19日(土)、江戸東京たてもの園を午後2時ごろに出た。
それからバスで東久留米駅に行く、西武池袋線の東長崎駅に行くためです。
その日の計画としては、江戸東京たてもの園を見たあと、
駒込の旧古河庭園のバラを見に行くか、
私たちが結婚して初めて住んだアパートを見に行くか、があった。
時間を考えると旧古河庭園には行けないと思ったので、東長崎にした。
江戸東京たてもの園の近くのバス停から50分ほどかかった。
土曜日の午後、東京の道路は混んでいる。
東久留米駅から東長崎駅までは、電車で30分ほどかかった。
東長崎駅を出てマクドナルドに入った。
私たちは昼食をとってなかった。
100円のハンバーガーとコーヒーで昼食とした。
東長崎の街を歩いていて、あの思い出のアパートにたどり着ける自信はなかった。
なにしろ40年前のことです。
女房は、そのアパートの住所を年金手帳から書き写していた。
なんとなく昔、駅からアパートに歩いていた道を行ってみた。
当たり前のことだが、街並みは変わっていた。
しかし、アパートの住所に近くなってくると、建物が古いままのものがあった。
そして、メモしてきた住所を見つけました。
そこには昔と変わりないアパートがあった。
下は荷札工場だった。
現在はやっていないようだ。
女房は、「2階の奥の部屋だったよ」という。
私はまったく記憶がなかった。

私たちが結婚(入籍)したのは1978年2月7日です。
(2・7のカブでいい日だと思った)
池袋の豊島区役所で入籍した。
私たちは、前年の11月8日に出会い、2週間ほどで駒込のアパートで同棲した。
たしか1月末に駒込から引っ越して、東長崎に行った。
台所とトイレと6畳一間だった。
3月にT大生協からTY大生協に店長として移籍になった。
これは私が結婚したからだと思う。
ところがTY大生協は、大学にⅡ部があるので朝8時半から夜の8時まで営業だった。
専従(普通の会社の正社員)が私1人とバイト3人ほどで営業していた。
私の勤務時間は決まっていたが、それだけの勤務をしていては成り立たない。
私は毎日、朝7時半から夜の10時ぐらいまで仕事をしていた。
当然、私は店長という立場なので残業代は出ない。
それは百歩譲ってがまんしよう。
私が耐えられなかったのは、私の上司が、
「**くんも店長になったんだから、○○新聞(ある党の新聞)をとろうよ」という。
私はそれはイヤだった。
そのとき、東京都知事選があった。
新学期で仕事はどうしょうもなく忙しい。
ましてTY大生協には私1人しかいない。
それなのに私に選挙応援に行けと上司がいう。
私は、絶望的な気持ちになった。
それで、大学生協が支援する党も、大学生協も私は厭になった。
そして私は退職することを決断した。
退職して私はこのアパートに1日中いた(今でいう“引きこもり”です)。
女房は、高田馬場駅にあるオシャレなパン屋さんで働いていた。
私はミジメでした。
そのころ流行っていた歌が、西城秀樹の「YOUNG MAN」だった。

7月、応募していた公団住宅に補欠当選したと連絡があった。
しかし、無職の人間は入居できない。
そのときある会社の求人に面接に行き返事待ちのときに、公団住宅の資格審査があった。
書類には、女房の勤め先と収入を記入して持って行った。
ところが、公団に申し込んだ人が無職ではだめだといわれて帰ってきた。
無職ということの情けなさをしみじみ味わった。
なんとしても高島平の公団住宅に住みたかった。
再審査が1週間後にあった。
私はすぐ採用してくれそうな求人に応募しようと考えた。
生協の電気担当として働いていたときに、マネキンという仕事を知った。
各電気メーカーから派遣されてくる人たちです。
その人たちとよく話していた私は、マネキンにはかんたんになれると知っていた。
新聞の求人広告を見ると、デパートのマネキンの求人があった。
私は、翌日そこに電話して面接に行った。
即、採用になった。
次の日から1週間、浅草の松屋デパート地下の魚売場に行った。
そこで朝から閉店まで鮭を売りました。
最初は慣れなかったが、やりましたよ。
「さあ、さあ、ご利用、ご利用、紅鮭3切れ500円」
毎日声の限りに叫んでいた。
そのマネキン会社の収入証明書を持って行って、公団住宅の再審査に合格した。
マネキン会社は1週間で辞めた。
8月、女房もバイトを辞めて2人で北海道に旅立った。
楽しい北海道の旅だった。
そして10月に高島平団地に引っ越した。
いろんなことがあった、東長崎のアパートでした。

コメント (2)
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