日記を読むと、その頃の私は活発に動いていた。
いろんな人に会っていた。
東京で働いて、夜の建築の学校に行っている奴。
やはり東京で昼間働いて、夜間の大学に行っている奴。
茨城で働いているが、東京に行ってカメラの学校に行きたい奴。
地元で真面目にサラリーマンやっている奴。
金物屋での私の主な仕事は、セメントや鉄の丸棒やトタン・壁材などの建材を、
2人いる運転手と配達していた。
そのとき運転免許のなかった私は、配達に行ったドライバーが戻ってくるまでに、
もう1台のトラックの荷台に、次に配達するセメントや丸棒などを積んでいた。
金物屋の在庫置き場の広いところを私は、トラックを動かして荷物を積んでいた。
することがないときは、店番だ。
鍋・釜・庖丁などを買いに来た客の相手をしていた。
3ヶ月もして金物屋の仕事をほとんど覚えると、そこにいることが厭になった。
私は、金物屋で働いていることに限界を感じていた。
また東京に行きたいと思うようになった。
金物屋の一番エライ人は奥さんです。
社長は別な建材会社を経営している。
2人の配達専門のドライバーがいて、店番をする女の子が2人いた。
私にとってみんな魅力のない人たちだった。
一所懸命仕事をしている人たちだったが、何も話すことがなかった。
その人たちと会話をしたいとは思わなかった。
私は仕事が終わると、高校のときの友人たちのところに行っていた。
東京で昼間働きながら夜に学校に行っている友人たちの話を聞き、私もそうしたいと思った。
私は中学生の頃、教師という職業に憧れていた。
家に私を大学まで行かせるお金がなかったから、私は大学進学を諦めていた。
あらためてまた上京して、昼間働いて夜の大学に行って教師になりたいな、と思った。
翌年の1月、奥さんに私の心のうちを話した。
奥さんは、店を辞めることを残念に思いながらも、私の生き方を応援してくれた。
私は1月で金物屋を退職して、2月に東京に行き、仕事とアパートを探した。
つづく
1冊目が19歳(1971年)の10月19日から20歳の1月11日まで、
2冊目が20歳(1973年)の1月23日から23歳の4月10日までが書いてある日記を読んだ。
日記を読むと、いかに自分の記憶がいいかげんか分かります。
19歳の10月は、私が5月に東京のギター工房を辞めて茨城に帰り、
町の小さな金物屋で働いていた。
まあ、かっこう悪い最悪のときでした。
その金物屋は駅前にあり、鍋・釜・刃物・生活雑貨を売る金物屋だったが、
主な商売は、大工や左官屋などの職人にセメントや鉄筋などの建材を売ることだった。
そこで真面目に仕事をしてれば、将来は私に店をまかせる、といわれていた。
そのへんのことが日記に書いてある。
私は朝出勤すると、店の前を掃除した。
そこを、登校する高校生が通る。
私が所属していた吹奏楽部の後輩も通った。
私はみじめだった。
去年まで吹奏楽部の部長だった私が、金物屋の店先をホウキで掃いているのです。
そんなことが日記には書いてある。
みっともない19歳の私でした。
つづく
今夜放送の「逆転人生」(NHK総合 午後10時~)を観た。
今日は、なんちゃって休肝日にしたので、酒も飲めないのなら寝てしまおうと思っていた。
ところが、今日番組が取り上げた人は、川越救急クリニックの上原院長だった。
私はよくこの病院のことは聞いていたが、詳しくは知らなかった。
これはぜひ観てみようと思った。
>「救急医の気骨 型破りの挑戦」
>驚きの発想!?個人で救急専門クリニックを開業した医師。
>救急搬送年間1200件受け入れ。なかなか搬送先が決ま
>らない患者を減らしたい。なるべくどんな症状でも診療。
(逆転人生ホームページより)
この人の考え方、生き方がすばらしいです。
川越救急クリニックのホームページ
「院長の勝手気ままなブログ」があります。
映画「世界の中心で、愛をさけぶ」を今日観た。
去年の3月に録画したものを今日観たのです。
われながらこの時間のズレかたはなんなんだ、と反省しています。
録画して1年以上たった映画はまだ何本かある。
日々時間に追いかけられて暮らしているから、こうなるんですね。
今週の何曜日だったか、「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)のゲストに
行定勲監督が出て7/17公開される「劇場」(原作 又吉直樹)の話をしていた。
そのとき「世界の中心で、愛をさけぶ」の映画をこの人が監督したことを知った。
そういえばうちのテレビのハードディスクにこの映画の録画があることを思い出した。
そんなわけでこの映画を、今日仕事から帰ってきてから午後観たのです。
午後とはいっても実際は、夕方5時過ぎてからでした。
仕事から帰ると午後はどうしても眠たくて2時間ほど寝てしまった。
68歳の身体を休めないと、次のことが思うようにできません。
いい映画でした。
私は泣きました。
長澤まさみが可愛くて、森山未來が新鮮だった。
大沢たかおと柴咲コウもよかった。
なんといっても山﨑努の、人間味のある重じぃの存在感が素晴らしかった。
こんなにいい映画だったら、もっと早く見ておけばよかった。
2004年に公開されたんですね。
私はどうも「世界の中心で、愛をさけぶ」という題名で避けてしまった。
もっとちがう題名だったらな、と思う。
こんど原作小説を読んでみたいです。
これが今年のゴーヤです。
去年は、こんなに育たなかったので、今年はゴーヤを植えたところの土を替えた。
早い話がホームセンターで“野菜を育てる土”を買ってきて入れ替えたのです。
現在、4つほど実っている。
大きく成長することが楽しみです。
女房にゴーヤチャンプルーを作ってもらって、ビールを飲みたいです。
いや、おれが作っちゃってもいいですね。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/sponichi/sports/sponichi-spngoo-20200710-0214
> 阪神―DeNAは試合途中から強まった雨の影響で、5回表終了後に降雨コールドが成立。
> 今季初めて観客を動員して行われた試合は阪神が3―2で勝利し、4連勝を果たした。
そこそこ阪神選手が打てている。
近本、大山のホームランがうれしい。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/sponichi/sports/sponichi-spngoo-20200709-0226
今季初めてジャイアンツに勝った。
長かった。
しかし、安心できない勝利だった。
9回表で藤川が亀井に打たれて1点差になった。
おれは、ひょっとして負けるのでは、と気が気ではなかった。
藤川も39歳になり押さえることが難しくなっている。
今年の阪神は大変だ。
昨日までの雨天中止のせいで阪神は、9月以降に13連戦を2度行うことになった。
投手のやりくりとかいろいろ大変だと思う。
おれの心安らかな日々はやってくるのだろうか?
ミシンを買ってから女房は、池袋や所沢や川越の布地などを販売している店に行き、
型紙や材料を揃えて、休日などにミシンを動かしている。
今日も仕事が休みで、作品第1号を縫い終えたという。
Tブラウスというものだそうです。
左が前で右が後ろです。(スマホで見ると左右ではないですね。上下に写真が並んでいました)
着て見せてくれたが、涼しそうでなかなかよさそうです。
これから母親のものなど作っていきたいという。
私としては、ジーパンの破れたところをミシンで縫ってもらえるだけでもありがたいです。
ミシンが家にあることで、暮らしはちょっと豊かになりそうです。
ところで最近は、“型紙”とはいわず“パターン”というようですね。
そう女房に教えてもらいました。
私にとってはどうでもいいことですが・・・。
7月7日は、永六輔の亡くなった日です。
私はこの世に、師匠とか親方とか先生と尊敬する人はいない。
ただ勝手に、永六輔の話すこと、考え方が好きで、
なるべくあのひとの話すことを聴こうとしていた。
私は小学生のころ、坂本九が好きだった。
坂本九は、戦争中は母の実家のある茨城県笠間市(私の実家の近くです)に疎開していた。
坂本九の本名は「ひさし」と聞いていた私は、自分と同じなんだと嬉しかった。
彼の歌う「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」の作詞は永六輔だった。
私は小学生のころから、永六輔の詞が好きだった。
私が20代のとき(1975年)、小沢昭一が主宰した劇団「芸能座」の旗揚げの芝居、
永六輔作の「清水次郎長伝・伝」を紀伊國屋ホールで観ている。
2003年にやった「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで私は観た。
(野坂は病気のため不参加)
また永六輔のラジオを聴きたい私です。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/dailysports/entertainment/20200707081
安田裕美が大腸がんで亡くなった。
デビュー当初から井上陽水を支えたことで知られるギタリストです。
私と龍彦は、それだけで安田裕美に憧れていました。
72歳ですか。
私ももうすぐにその歳になります。
ご冥福をお祈りいたします。