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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

トルコ旅行(その16)エルトゥールル号遭難事故

2009-05-07 | 旅行

今回のトルコ旅行では、現地ガイドのギョク・ハンさんが、トルコの殆どの人たちは非常に親日的であることを日本に帰ったら友人、知人に是非伝えて欲しいと力説しました。
今日は、このトルコ旅行記の最後に当たり、このことをご紹介したいと思います。

・現地ガイドのギョクハンさんです。
 日本語がとても上手です。


トルコの人々は大変親切で、助けてあげても恩返しは期待しませんが、親切にされたら必ず恩返しをするという国民性で、日本人に対しては、殆どの国民が「好きだ」と答えるほど親日的だそうです。
その理由は、118年前に起きたエルトゥールル号遭難事故に遡ります。
この事故で日本の救助活動に感謝し、トルコは長い間日本に対する親愛の情を育ててきた国なのだそうです。

エルトゥールル号遭難事故とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本町大島の樫野崎灯台沖で遭難した事故です。概略は次のようなものです。

「エルトゥールル号遭難事故の概略」
オスマン帝国(現在トルコ)の木造フリゲート艦エルトゥールル号は日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応えるためと、両国の友好関係の発展と相互理解を期待して派遣された艦船で、1889年(明治22年)7月、イスタンブールから11ケ月をかけ、1890年(明治23年)6月に日本に到着しました。
一行は皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。

そして3ヶ月余後の1890年(明治23年)9月16日夜半、帰路に着いたエルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、和歌山県串本沖、大島の樫野崎に連なる岩礁に激突しました。
座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こして沈没、司令官オスマン・パシャを始めとする乗組員587名が死亡または行方不明となる大惨事となりました。

このとき、樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、十数メートルの断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせました。
灯台守から通報を受けた大島村(現串本町)樫野の住民たちは総出で救助と生存者の介抱にあたりました。

漁業で生計をたてている村人たちは貧しい生活をしており、台風で出漁できず、食料の蓄えも僅かでしたが、それにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリにいたるまで供給するなどして、献身的に生存者たちの回復に努めました。
この結果、収容された69名が救出され生還することが出来ました。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島町長に伝えられ、町長は神戸港の外国領事館に救助を求めて、生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配すると共に、県を通じて日本政府に通報しました。

知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられています。

こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、10月5日に品川港から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により、生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられました。

エルトゥールル号遭難事故はオスマン帝国に大きな衝撃を呼びましたが、新聞を通じて大島島民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は、遠い異国の日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれています。


「日本・トルコの友好関係の起点とトルコの恩返し」

・トルコ国旗です。 (「新月旗」および「月星章旗」と呼ばれています。)
 国旗のデザインについてはいろいろな説がありますが、最も信じられているものは、1918年~1922年のトルコ革命の指導者ケマル・アタテュクル初代大統領が革命に勝利した夜、戦場を歩いていてサカルヤの岩山で流された血の海に三日月と星が映って見えたからとされている説のようです。
      トルコの国旗

エルトゥールル号遭難事故は、その後も長く日本・トルコの友好関係の起点となりました。
トルコ人が公的な場で日本人に対し、日本・トルコの友好の歴史を語るとき、必ずといっていいほど第一に持ち出されるのがエルトゥールル号遭難事故の顛末といわれています。
その一方で、日本では余り記憶されておらず、長らく公的な場では語られることがなかったようです。

それから95年後、トルコは日本に恩返しをしました。

1980年(昭和55年)に勃発したイラン・イラク戦争で、1985年(昭和60年)3月17日、イラクのフセイン大統領が「今から48時間後にイラン上空を飛ぶ全ての飛行機を無差別攻撃する」と宣言しました。

この時、イラン国内に残された日本人215名は、自衛隊の海外派遣不可の原則のために自衛隊機による救助が受けられなかったうえ、日本航空も組合の反対により日航機による救助が出来ず危機的状況にありました。
イランの日本大使が八方手を尽くしましたが、いずれの国も自国のことで手一杯で、日本人の救助まで手が回りませんでした。

この時この呼びかけに答えてくれたのがトルコ政府でした。
トルコ大使は「直ちに本国に救助を求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰でもがエルトゥールル号の遭難に際して受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょう」と答え、2機のトルコ航空機が派遣されました。

タイムリミットの1時間15分前に215名の日本人全員を乗せて、トルコ経由で成田に全員帰国させてくれました。
自国民に優先して日本人を救出したことで、約500人のトルコ人は救援機に乗れず陸路でイランを脱出したと言われています。

何故、トルコ政府がこれほどまでに日本人に対して配慮してくれたのか、救出された日本人の殆ど、そして日本政府もマスコミも知らなかったようです。

特定非営利活動法人「ふるさと日本プロジェクト」から発行された『甦るエルトゥールル号 友情の海碑』という48ページのマンガ本があります。
この本をガイドのギョク・ハンさんがバスの中で回覧してくれました。
この本には、エルトゥールル号の遭難とイラン・イラク戦争の日本人救出のことが分かり易く書かれています。
また、この本の表紙裏に、駐日トルコ共和国アタジャンル特命全権大使の「日本の子どもたちへ」と題する次のような言葉が掲載されています。

「(前略)愛する者から何千キロも離れたこの土地で、悲劇に遭遇したトルコ海兵への精神的救いとなった心のこもった無償の献身は、今日まで日に日に強くなる友情・感情の基礎となりました。
異なる言語を話し、異なる文化を有する人々の悲劇で始まった友好が、今日、漫画によって日本の子供たちに伝わることは、両国民のより一層の相互認識と相互理解につながる大きな一歩となるでしょう。」

現地ガイドのギョク・ハンさんは次のように言っていました。
「トルコの小学校では、エルトゥールル号遭難事件と大島島民の献身的な救護のエピソードを歴史教科書で学んで親日感を育んでいますが、日本では殆ど知られていないのが悲しくなります。日本の人にも是非知っておいて欲しいと。」

武士道を重んじる昔の日本人は、現在のトルコのような国民ではなかったでしょうか?
せめて、トルコと日本の友好の起点となった『甦るエルトゥールル号 友情の海碑』のこと、そして恩返しをしていただいた、イラン・イラク戦争でのトルコ航空機での救出について、日本人として記憶しておきたいものです。
少なくとも、私は日本人の一人として感謝し、いつまでも記憶にとどめておきます。

今回のトルコ旅行では、トルコには素晴らしい遺産があること、見学した遺跡などからトルコの歴史が学べたこと、トルコ人が親日的であることなどを肌で知り、トルコのイメージが変わりました。

・今回のトルコの観光コースです。
 上部の黒海の左下がスタートと終点の町イスタンブールです。ここから時計回りに観光しました。


日本人以上に日本のことを良く知っているガイドのギョク・ハンさん、そして2000㎞以上の道のりを安全運転してくれた運転手のイーハンさんありがとうございました。

・運転手のイーハンさんです。
 全員が感謝の握手をしてお別れしました。



今日で16回に亘るトルコ旅行記を終わります。ご愛読ありがとうございました。
明日から家庭菜園を中心とした記事に戻ります。引き続き宜しくお願いします。