今日6月18日は、移民船「笠戸丸」が初めてブラジルのサントス港に入港した日で、これを記念して定められた「海外移住の日」です。
そこで、今日は「海外移住の日」とその背景について調べました。
「海外移住の日」とは、1908年(明治41年)6月18日、日本からの初の集団移住者158家族、781名を乗せた移民船「笠戸丸」が、神戸港を出航して以来2ヶ月の航海の後、ブラジルのサントス港に始めて入港したことを記念して、昭和41年(1966年)に総理府(現内閣府)によって定められた日で、日本と移住先国との友好関係を促進するための記念日となっています。
・笠戸丸です(ウィキペディアより)
日本人の海外渡航は明治維新(1868年)とともに始まりました。
日本は明治維新によって世界各地を結びつける国際経済、労働市場、交通網の一部となり、近代化と社会変化が起りました。
特に農業形態や経済構造が変化する中で農村部を中心に余剰労働力が生まれ、これが海外移住につながったようです。
「海外移住が生じた背景」
・日本の人口は明治維新の頃が約3千万人、昭和初期は2倍の約6千万人に増加したと言われています。
戦後の敗戦によって外地から引き上げてきた段階では、更に増えて約8千万人になったそうです。
このように人口が倍増したにもかかわらず耕作面積は殆ど増えなかったこと。更に農業技術の向上による収入増だけでは人口増を養えなかったこと。
・農村の余剰人口は都会に流出して労働者になりましたが、第一次大戦後の長期不況で労働力の余剰感が強まったこと。
・その結果、農村・都市の双方で大衆の生活水準の伸び悩み・低下が見られたこと。
等によるようです。
その典型例が、飢餓線に近い低生活水準であった東北の農村の惨状です。この時期、冷害による不作が続いたことも悲惨さを拡大しました。
・また、海外への移民募集には「地主になれる」、「金を貯めて故郷に錦を飾れる」ことを謳ったものが多かったこと。
しかし、実際は、宣伝と実態が大きく違うものが多かったようです。
移民先は、ハワイ、アメリカ本土、中南米、満州等だったようです。
明治中期~後期には、ペルーへ最初の契約労働者の渡航が始まり、やがてラテンアメリカへの日本人渡航が盛んになりました。
そのなかでも、特にブラジルが日本人移民労働者の主要な渡航先になりました。
当時、新天地ブラジルにいろいろな夢を見て入植した人たちには厳しい現実が待ち受けていました。
ある者は辛い生活を送りながら挫折し、ある者は成功して農場主になるなど様々だったようです。
1997年に天皇皇后両陛下がブラジルをご訪問された際に、第1回移住者の中で最後の生存者の中川トミさんが歓迎式典に招かれたそうです。
戦後、サンフランシスコ講和条約(1951年)が日本の独立を許すと、政府はラテンアメリカ諸国と条約を結び、日本人定住農業移民を送るようになりました。
1952年にブラジルへ戦後最初の移民団が渡航すると、その後、ラテンアメリカを中心に多くの日本人が移住しました。
しかし、1960年代に日本の経済が復興すると、日本人の組織的海外移住は次第に終結に向かいました。
そして、1980年代になると南米の経済恐慌と日本のバブル経済の影響で、多数の日系ブラジル人やペルー人が日本に出稼ぎにやって来る現象が始まりました。
「笠戸丸」
笠戸丸は6000総トンで平均速度は約10ノットです。船足は遅いですが長距離航行に優れており、明治時代後期から昭和初期にかけて外国航路用の船舶として用いられました。
ハワイやブラジルへ移民が開始されると移民船として使われたことでよく知られています。
移民用では最大1000人収容できるように船底の貨物室を改造したようです。
そこで、今日は「海外移住の日」とその背景について調べました。
「海外移住の日」とは、1908年(明治41年)6月18日、日本からの初の集団移住者158家族、781名を乗せた移民船「笠戸丸」が、神戸港を出航して以来2ヶ月の航海の後、ブラジルのサントス港に始めて入港したことを記念して、昭和41年(1966年)に総理府(現内閣府)によって定められた日で、日本と移住先国との友好関係を促進するための記念日となっています。
・笠戸丸です(ウィキペディアより)
日本人の海外渡航は明治維新(1868年)とともに始まりました。
日本は明治維新によって世界各地を結びつける国際経済、労働市場、交通網の一部となり、近代化と社会変化が起りました。
特に農業形態や経済構造が変化する中で農村部を中心に余剰労働力が生まれ、これが海外移住につながったようです。
「海外移住が生じた背景」
・日本の人口は明治維新の頃が約3千万人、昭和初期は2倍の約6千万人に増加したと言われています。
戦後の敗戦によって外地から引き上げてきた段階では、更に増えて約8千万人になったそうです。
このように人口が倍増したにもかかわらず耕作面積は殆ど増えなかったこと。更に農業技術の向上による収入増だけでは人口増を養えなかったこと。
・農村の余剰人口は都会に流出して労働者になりましたが、第一次大戦後の長期不況で労働力の余剰感が強まったこと。
・その結果、農村・都市の双方で大衆の生活水準の伸び悩み・低下が見られたこと。
等によるようです。
その典型例が、飢餓線に近い低生活水準であった東北の農村の惨状です。この時期、冷害による不作が続いたことも悲惨さを拡大しました。
・また、海外への移民募集には「地主になれる」、「金を貯めて故郷に錦を飾れる」ことを謳ったものが多かったこと。
しかし、実際は、宣伝と実態が大きく違うものが多かったようです。
移民先は、ハワイ、アメリカ本土、中南米、満州等だったようです。
明治中期~後期には、ペルーへ最初の契約労働者の渡航が始まり、やがてラテンアメリカへの日本人渡航が盛んになりました。
そのなかでも、特にブラジルが日本人移民労働者の主要な渡航先になりました。
当時、新天地ブラジルにいろいろな夢を見て入植した人たちには厳しい現実が待ち受けていました。
ある者は辛い生活を送りながら挫折し、ある者は成功して農場主になるなど様々だったようです。
1997年に天皇皇后両陛下がブラジルをご訪問された際に、第1回移住者の中で最後の生存者の中川トミさんが歓迎式典に招かれたそうです。
戦後、サンフランシスコ講和条約(1951年)が日本の独立を許すと、政府はラテンアメリカ諸国と条約を結び、日本人定住農業移民を送るようになりました。
1952年にブラジルへ戦後最初の移民団が渡航すると、その後、ラテンアメリカを中心に多くの日本人が移住しました。
しかし、1960年代に日本の経済が復興すると、日本人の組織的海外移住は次第に終結に向かいました。
そして、1980年代になると南米の経済恐慌と日本のバブル経済の影響で、多数の日系ブラジル人やペルー人が日本に出稼ぎにやって来る現象が始まりました。
「笠戸丸」
笠戸丸は6000総トンで平均速度は約10ノットです。船足は遅いですが長距離航行に優れており、明治時代後期から昭和初期にかけて外国航路用の船舶として用いられました。
ハワイやブラジルへ移民が開始されると移民船として使われたことでよく知られています。
移民用では最大1000人収容できるように船底の貨物室を改造したようです。