らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

熊野古道を歩く(その2)「鮎川王子」

2012-11-07 | 趣味

熊野古道を歩くシリーズの2回目は「鮎川王子」をご紹介します。

熊野古道九十九王子とは、熊野古道沿いに在する神社の内、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社を言い、これらの王子と呼ばれる神社が熊野古道の紀伊路、中辺路(なかへち)沿いには九十九存在していることから九十九王子と呼ばれているもので、ここでは参詣者の守護が祈願されました。

・一ノ瀬王子から鮎川王子へ向かう途中に“乙女の寝顔”の看板がありました。

正面に見える山が看板にある“乙女の寝顔”のようですが、そのように見えるでしょうか?
どうも看板に偽りありそうですね。


「鮎川王子社跡」
説明によれば、藤原定家は建仁元年(1201年)10月13日、この王子社に参詣し、日記には「アイカ王子(鮎川王子)」と書いています。
鮎川王子と記されているのは、承元四年(1210年)熊野に参詣した藤原頼資(よりすけ)の日記です。
頼資(よりすけ)は修明門院に随行して熊野参詣をしましたが鮎川付近で災難に遭遇しています。
その遭難とは、4月28日大風雨の中、田辺を出発した一行は石田河(現:富田川)の一ノ瀬を渡ったころから川が増水し始めました。頼資は鮎川王子に辿り着きますが、六の瀬付近で公卿の従者など9名が命を落としたというものです。
江戸時代には王子社と言われ拝殿を備えていましたが、明治時代に住吉神社に合祀されました。
跡地はその後、崩壊して原形を留めず、石碑が建つのみとなっています。

隣には大塔宮劔(おおとうのみやつるぎ)神社の石碑があります。
この神社は、大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王が足利尊氏に幽閉された後、この地に身を隠した重臣の平賀三郎が宮の劔を祀ったと言われており、やはり住吉神社に合祀されています。



「住吉神社の鳥居」
住吉神社は、和歌山県田辺市の旧大塔村、大塔行政局のある下平という地区の山裾にある神社です。
明治時代末に近くにあった大塔宮劔神社(おおとうのみやつるぎじんじゃ)がこの神社に合祀されたため、それ以来、俗にお劔さんと呼ばれるようになったそうです。



「住吉神社本殿(左)と剱神社(右)」
住吉神社は、社伝によると宝永年間(1704~1711年)に摂津の住吉大社から勧請、鮎川村の産土神(うぶすながみ)として崇敬されました。
明治初年(1868年)に社名をそれまでの住吉社から住吉神社と改称、明治7年(1874年)には鮎川王子を合祀しています。

向かって左側が住吉神社、右が剱神社です。


「餅つかぬ里」
和歌山県田辺市鮎川の小川(旧大塔村鮎川字小川)という地区では昔、正月には餅をつかないという仕来たりがありました。
その謂れは、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王に由来します。

後醍醐天皇による討幕計画が事前に鎌倉幕府に漏れ、幕府に追われることとなった大塔宮護良親王は僅かな家臣と共に山伏の熊野詣でを装って熊野に逃れてきました。
大塔宮一行が小川の里にさしかかった時、宮の一行は余りの空腹に里の者に食べ物を求めました。
時はちょうど年末でどの家も餅をついていましたが、幕府方からの御達しがあったことから餅を差し上げることができませんでした。
後にそのことを悔やみ非礼を詫びるため、以後一切餅をつかないことにしたと言うものです。

このしきたりは長く続いたそうですが、昭和10年、京都の大覚寺で大塔宮護良親王の600年御遠忌法要が営まれた際に、小川地区の代表者が参列して、餅を供え、昔の非礼を詫びし、それからは正月の餅をつくようになったと云われています。

住吉神社境内の夫婦樹です。


「坂本冬美の記念植樹」
歌手の坂本冬美は当地が出身地のようであり、住吉神社境内には彼女が植樹した木と記念碑が建っていました。