今回の“熊野古道を歩く”シリーズは今日の「滝尻王子」が最終となります。
下の画像は清姫の墓から2㎞ほど進んだ富田川沿いの古道ですが、この辺りは、昨年の紀伊半島豪雨による山崩れの土砂が川に流れ込んでおり、今もなお復旧作業が続いていました。
・正面の仮の橋は国道311号線に架けられているもので、1年以上経過した現在もまだ工事中です。これも「コンクリートから人へ」が影響しているのでしょうか?
・山崩れの現場です。流れ落ちた大量の土砂が富田川をせき止めた現場です。
山崩れの土砂でせき止められた富田川ですが、水路だけは確保されています。(右側の谷が山崩れの現場です)
「滝尻王子の鳥居」
この王子社から本宮まで厳しい山道となります。
天仁2年(1109年)に熊野参詣をした藤原宗忠は日記に「初めて御山の内に入る」と書いており、滝尻からが熊野の霊域とされたのだそうです。
「滝尻王子宮」
滝尻王子は、熊野九十九王子の中でも特に格式が高いとして崇敬されてきた「五体王子」のひとつで、熊野の霊域の入り口とされて、とても重要な場所だったようです。
後鳥羽上皇の一行もこの社前で御歌会を催されたと伝えられます。
滝尻王子(たきじりおうじ)は、富田川と石船川が合流する地点にあり、「滝尻」の名は、石船川の急流が富田川に注ぐ滝のような水音からきたと云われています。
「中右記」
熊野古道館に展示されている「中右記」です。(宮内庁図書寮蔵)
中右記とは、平安時代後期の貴族 藤原宗忠が五十余年つけていた日記のことです。
ここに展示されているものは天仁2年(1109年)晩秋に熊野参詣をした時の記録です。
初めの部分が欠けてはいますが、有田川を渡るところから熊野三山を巡拝して京都に帰るまでが記録されており、当時の熊野参詣の様子がよく分かると云われています。
私たちの歴史探訪同好会は概ね3ヶ月ごとに熊野古道を歩いています。
3年前に大阪天満橋の八軒屋船着場跡をスタートして、漸く下の地図の現在地と表示されている滝尻王子まで辿り着きました。