2019年のブログです
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岩宮恵子さんの『フツーの子の思春期-心理療法の現場から』(2009・岩波書店)を再読しました。
なかなか面白い本で、読むのはもう何回目かですが、感想文を書くのは初めてです。
「フツー」の子どもたちが、何をきかれても、「フツー」とか「ビミョー」とか、口癖のように言う現象を事例を紹介しながら、描いています。
確かに世の中に、そういう子どもたちがいますが、それを臨床心理学的に、しかも事例を交えて分析をするところが岩宮さんのすごさです。
岩宮さんは、こころの内側のことを言葉にしろと言われても無理なので、「フツー」と返すのではないか、という解釈をされます。うなずけます。
じーじの経験では、ワカラナイ、を連発する子どももいます。
総じて、こころの内側を見るのが苦手な子どもが増えていて、うわべの人間関係が多くなっているようです。
そして、痛みや哀しみ、怒りを無視しようとしたり、なかったことにしようとする心理機制が強く働いているようです。
できることなら、ああでもない、こうでもない、と考えるのが望ましいでしょうし、そういうような付き合い方をしてくれるおとなの存在が大切になるのでしょう。
そういう本気の付き合いが大切なんだろうと思います。
やさしい言葉づかいの本ですが、子どものことを深く考えさせてくれるいい本だと思います。 (2019.7 記)
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2021年冬の追記です
ああでもない、こうでもない、と考えられることというのは、あいまいさやわからないことに耐えられること、につながるのかもしれませんね。 (2021.2 記)
哀しみや怒りの感情を否認して、きちんと見つめていかないと、いつかは暴発してしまう気がします。
それが、人間関係であれ、社会現象であれ、共通したものがあるのかもしれませんね。
小山といいます。
岩宮恵子『フツーの子の思春期-心理療法の現場から』2009 の記事の中の「痛みや哀しみ、怒りを無視しようとしたり、なかったことにしようとする心理機制」のところが、
拙ブログ『「喪われた悲哀」と「愛されない能力」その2』の『ミッチャーリヒ夫妻は、ファシズムの台頭を許してしまったり(許すどころか熱狂してしまったり、、、)、敗戦後の「そんなことはなかった」事にしてしまったり、「自分とは関係ない」事にしてしまったりした背景に、(どこかの国に似ているんです、、)ドイツ人の人の「悲哀が喪われてしまっていた」事が関係すると分析しているようなのです』に似ているような気がしました。