三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

平泉中尊寺・骨寺荘園図

2011年01月10日 09時17分08秒 | Weblog




東北と出会ってから、歴史好きとしては
平泉の成り立ちとか、その背景とか
そういった部分が、実は北海道島の「歴史」と深く関わっていて
たとえば奥州藤原氏というようなクッション装置の
動きの中に、カギが眠っているに違いないと思うようになっています。
そうすると、時代としては平安から鎌倉に掛けての時期が
主要な舞台になってきます。

そういった時代には、「荘園」という存在の意味が重要。
一応、「公地公民」ということから、
日本の中央政権の「経済政策」は出発したけれど、
その基本はスタートの時から現実的に難しい運用を迫られていた。
公地公民制度のように、中央集権国家がすべての生産を管理して
収奪を徹底させるというのは、
やっぱりハナから無理があるのでしょう。
初めから農地がすべて国家のものになるのであれば、
国家がすべての「投資」も行わなければならない。
しかし実際には、そんなことは無理。
そもそも権力というのは、
武力によって、あるいは強制力によって
他者の富を奪い取るのがその本質でしかない。
ひとは自分の欲望に即して必死になるけれど、
だれも架空の存在・権力のために尽くそうなどと考える人間はいない。
そういうことで、新しい生産装置・新田やその周辺的富の生産システムの
新規開発は、寺社勢力とか、高級官僚たる貴族層などの
自己増殖欲求によって行われてきた。
図面は、中尊寺の経済を支えるために奥州藤原氏政権によって
認定されていた「荘園」ということ。
現在もこの開発当時の図面に近い形で存在しているということで、
平泉の世界遺産申請のひとつの大きな構成要素とされています。
荘園という経済生産状況を、想像可能な形でよく伝えている。

この骨寺地域というのは、地形的に独立性の高い地域のようで
中世世界そのままの形が、稀有な形で残ったのだそうです。
記録では、中尊寺の紺地金色写経制作の管理者になった僧侶が
この荘園に関する権利を藤原氏から公認された。
でも、藤原氏は、自らこの荘園を開拓してその僧侶にプレゼントしたわけではなく、
僧侶とその一統が開発した荘園を形式的に認定したということなのでしょう。
後の世の「庄屋」的な存在も数軒存在し、
かれらが事実上、この「生産大隊」を管理し、
中尊寺に対して毎年、生産物や富を上納してきた。
そこに「生きた中世経済」が見えてくるはずですね。
しげしげと眺めつつ、思いを募らせている次第であります。
コメント
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