きのうは再度の富良野観劇でした。
仕事上の用件もあったので、片付けたあと、観劇。
2度目の観劇ではありましたが、
それでも、起承転結の、転、結のあたりの盛り上がり部分では
やはり、思いが盛り上がっていく。
感激する、という人間の心理にはやはり定型の部分もあるのだと思います。
うっすらと目のあたりに熱いものが滲んでおりました。
本日が最終日、その直前の舞台だったのですが、
言われていたとおり、
やはりいくつかの場面で当初からの変化も見られました。
そういった変化の意図とかも考えていくと
面白みに深さが増す。
カットバックの場面では、なんと、客の役で倉本聰さんも出演していた(笑)。
まぁ、後ろ姿だけだったので、絶対間違いないかどうかは不明ですが、
たぶん間違いはないと思いますね。
で、一度聞いたセリフでも
2度目に聞いて、さらに印象が増す言葉というのもある。
人間に化身した冬将軍・マロースが
死んだ妻の遺体について語るくだり。
「(彼女の)屍肉を動物たちがついばみ、残されたすべてが
微生物たちの食べ物となって、(彼女の)本当の命が終わるまで・・・」
という意味のくだりがありました。
最近の倉本作品には、抜けがたく「死生観」がウェートが高まってきている。
劇というのは、俳優たちの肉体を通して
作者の言葉が、無数に散りばめられていく世界。
数々の印象的なセリフがあるなかでも、
きのうはこの言葉がクライマックス近くで、重要な語りなんだと感じました。
そして、「そうなるときまででいいから、
墓に参ってやってください。」
というフレーズが初演ではあったように思う。
きのうは、そちらの方のセリフ、
どうであったか、よく記憶していない。
どうも印象としては、このセリフは略されていた可能性がある。
むしろ、前のセリフを際だたせるためにカットしたのかも知れない。
そんなあれこれを考えながら、ドラマを楽しんでいました。
そうか、そのような自然との関係の取り方ってあるのだと
思い知らされた部分ですね。
宮沢賢治の「夜鷹」のラストシーン、
死を覚悟する夜鷹が、それでも自分の命のために
口を開いた自分のなかに食物として飛び込んでくる
小さな無数の命に、無常観を持つシーンがあって、
小さいときからずっと頭に残っています。
そういう輪廻のドラマ性に、通底する部分なのではないかと、
帰り道、そんな心象にこころが満たされながらおりました。
いずれにせよ、北海道の自然の中で
こういう演劇体験を味わうことが出来るというのは
本当にうれしいと思います。
この6月には、昨年に引き続き「帰国」が上演されると言うこと。
また楽しみにしていきたいと思います。ありがとうございました。
<写真は、上演を待つ間、つい買ったポテチです>