きのうはカミさんが出張に出まして、
夕食を坊主のために作って、親子の対話であります。
で、ふと坊主から、
「父さん、脳はどうして心をつくったの?」
「こころというのは、人間だけにあるのかな?」
というたいへん根源的哲学に関わる真っ正面からの質問であります。
内心、おおぉ、というところでありますが、
そんなことから会話をはじめました。
こころの問題については、
以前、海を群れ泳ぐ魚群において、1匹のサカナが死んで
その遺体が海の底に落ちていくのを、
多くの魚群が、まるで悼むかのように、
その魚体を取り囲んで、群れ泳いでいる様が映像で流れていたことがあり、
そんな話をしておりました。
わたしも高校の頃、そんなことを考えていたことを思い出しました。
「心的現象論序説」という吉本隆明さんの本を読んでいた経験があります。
まぁ、高邁な哲学なので、さっぱり理解は出来なかった記憶がありますが、
そういうことに興味を持つのは、わかります。
で、話の結論が出るわけもなく、
「人のことを、人間っていうのは、どういう意味だと思う」
っていうような話になって、わたしは記憶が途切れてしまった(笑)。
情けなくも、ソファで睡魔に襲われてしまったのですね。
中国語でも、朝鮮語でも、
「人間」という表現を使うのだそうです。
この人間ということばは、仏教的観念がそこに反映しているようです。
一方で、欧米的世界観では、
キリスト教の影響が強く、人間というのは、
神が、自らに似せて作りたもうたものであり、
ほかの生き物を「支配する」、という考えが強いのだそうです。
そういう考え方とは、アジア的な世界観はかなり違いがある。
人間ということばからは、
関係の中の社会的存在、という側面が強く意識されている。
今回の震災に際して、世界がある種の驚きを持っていたことに、
大きな略奪や暴動などといった社会不安は発生していない、
という点が大きかったのではないかと思います。
そういう点、こういった側面の認識が
わたしたち、アジア的感覚がきわめて特徴的なのか、と
思い至る部分があります。
<写真は、1200年前くらいの北海道島でのくらしのジオラマ>