三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

わが家のかわいいシーサー

2010年11月20日 08時41分44秒 | Weblog





忙しさにかまけて、
わが家には、うるおいというものが不足しているのでは?
っていうことで、先日、ふと再発見していたのが
ごらんのシーサー置物。
沖縄で娘の身の回りのこととかを心配していたころに
買い求めていたもので、
かわいいなあと、買ったのはいいけれど、それ以来4年くらい、
まったく置き場所を得ていなかった。

わが家は、もともとはしっかりデザインされていた建物だったのですが、
職住一体の建物で、仕事の方が予測よりも大所帯になって
増築したりしたので、しわ寄せで玄関は結局、狭くなってしまっておりました。
その後、仕事場の方は結局、別の場所、ほんの5百メートル距離に
新築移転したので、その残骸がちょっと広すぎる自宅として残ったもの。
そのうえ、仕事が忙しくて、家のことを考える時間とゆとりが持てないまま・・・
っていう、よくあるパターンなんですね(笑)。

前振りが長すぎですが、
ようするに、ようやくにして、シーサーたち、
わが家の玄関先に置かれた次第です。
シーサーですから、やはり門とか、入り口とかにいるのが正しい。
で、考えた末に、階段の衝立的な部分の上に置いたのです。
でもそうなると、スペースは狭くやや不安定でもあるので、
足下前後に、枠のようにした小木材を木工ボンドで造作してみました。
万が一、荷物移動の時などでも、
シーサーを移動できるし、また、玄関ドアの開閉時の振動などで
ずれていくようなのも押さえられるのではないか、
そんな工夫をしてみた次第であります。
で、家に帰ってくるとにっこりシーサーが迎えてくれる。
家を出るときには、
「いってらっしゃい、ヘンなヤツが来たら噛みついてやるから、安心しな」
みたいな表情で送ってくれております。


家をことを考えるというのは、
好きなんです、本当は。雑誌を創っているくらいなんで(笑)。
でも、忙しくて、自分の家のことはあんまり考えられない。
パラドックスであります。
こうやって、ほんの小さなことを考えることが出来て、
ややバランスを取り戻したような気がいたします。
前にはよく、仕事の空間でDIY的に作業環境を自作したりしておりました。
そういうことを考えている時間は、本当に大切ですね。
最近は、日本全体がこういう種類のゆとりを失っているのではないか。
景気とか、経済とか、政治とか、
どうしてもそういうことで、不満や不安が襲ってくるのですが、
少しでも心がけて、身近な整理整頓を考えていきたい。
しあわせは、結局、身の回りの小さいことから、でしょうね(笑)。
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北方型住宅eco+ チームあいの里

2010年11月19日 05時06分40秒 | Weblog






きのう夕方、当社2階のオープンルームで
表題の会合が行われました。
このプロジェクトは、GW相当で壁厚300mm断熱の住宅を建てる
という画期的な取り組みを行っているグループ。
中心的には、建築家の山本亜耕さんがまとめ役になっているプロジェクトです。
壁の断熱では、通常のGWを軸間に100mm充填し、
その外側に、新開発の90mm厚の発泡断熱材を付加断熱するもの。
性能的に、壁300mm断熱レベルに達するのです。
でもまぁ、実際に90mmの断熱材を付加するというのは、
在来木造構法住宅としては、施工的には実質的に初めての試みになるので、
試行錯誤を重ねながら、技術標準の開発をしながら出来たものです。
山本さんの言葉で言えば、
1年以前に取り組んだ高性能住宅が、
どうしてもコストアップせざるを得なかったことをスタートに、
どうすれば、コストを上げずに性能の劇的向上を図れるのか、
そういう志でのプロジェクトなのです。


木造建築の工務店から、温熱環境熱計算の専門家、
資材の生産者、暖房器具の生産者などなど、
今日の北海道住宅技術の最先端のみなさんの結集体。
北海道では、いまや、こういった技術要素を組み合わせて
住宅が考えられていく必要があるのだ、ということが実感できる。
まずは、基本的な「駆体」の性能をどう担保するのか、
ということが大前提。
住宅は、永く存続していくべきものであり、
もっとも変化しないベースを作り出す必要性がある。
その上で、出来上がったエネルギーを充分コントロールできる環境に
似合った、ベストマッチの設備機器を検討していかなければならない。
より小さいエネルギー出力、具体的には
微少燃焼という暖房設備というのは、
逆になかなか難しい技術なのだと言うことも見て取れます。

そして、こういった各分野についての
建て主さんの理解力も必要になってくる。
日本では、注文住宅が基本であり、
基本的なデザインや、間取り、仕上げなど、
個別のオリジナリティを求めるユーザーが多いのが現実。
そういうなかで、ユーザー側でも、
こういった技術の組み合わせに対する価値判断力のようなものが
徐々に育ちつつあるのだと、感じられます。
注文住宅とはいっても、その表層的意匠性にだけ目が行っていたのが
これまでのユーザー心理であったのが、
そういうレベルだけではなく、
技術要素に対しても、「作り出す」という意味合いが強まってきている。
住宅の色合いを選択するのと同じように、
室内空間の温熱的な空気質や「体感」までも、判断する感受性が育っている。
また、そのような選択が重要になってきている、とも言えますね。

そういう意味では、
ほんとうに北海道の住宅はレベルが高くなってきている。
そういうことを実感させられた会合でした。
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平泉の黄金と北方交易

2010年11月18日 07時17分13秒 | Weblog





先日書いた、「築90年の食事処」の名前を
同席していた金田さんからお知らせいただきました。
「お茶の間」というのだそうです。
なんか、まんま、っていう気もしてしまって、むむむですが・・・。
ありがとうございました。

さてライフワークの物語、最近も徐々に進んでおります。
とはいっても、頭の整理整頓が難しく、
遅々とした歩みではありますが・・・。
で、参考にさせていただけそうな考古的学術資料・知見が、
芋づる式に手に入ってきております。
そういうなかで、最近わかってきたのが、
平泉の「黄金文化」についての情報であります。
どうも、平泉の黄金って、その生産地が
奥州ばかりとは限らないのではないかというのです。

思わず、目が点になってしまいましたね。
さらに、奥州藤原氏に繋がっている安倍氏は、
その出自が、渤海国の王族に連なっているという説もあるそうなんです。
金の産出については、
749年に、百済王敬福という
そのまんまの出自の人間が、その配下の人々を手配して
陸奥守の副官としての官位を得て、赴任し、
現地の涌谷の地で発見し、発掘して、
天皇に献上した、という記録が残されています。
その後、かれは官位が7階級特進して、
陸奥守も拝命し、最終的には都で栄華を勝ち得たということだそうです。

金はその後も産出が続いていたことでしょうが、
その年代から、藤原氏の中尊寺金色堂までは、約400年くらいの年月がある。
金の発掘というのは、支配権力側にしてみると
大変貴重な資源であることは明白で、
この時代の金生産では、世界的にも最大の地域にはすぐになったことでしょう。
その後の「日宋貿易」では、中国側から強く金を交換品として
要求されたことは明らかです。
この時代、巨大な商業国家・宋では、
ヨーロッパ世界とのビジネスも盛んであり、
その決済手段として、金の需要が非常に大きかったという。
マルコポーロが、黄金の国ジパングと書いたのは
こういった経緯からのものであったそうですから、
いかに、平泉の金が大きい生産量を持っていたか、を表している。
そういう絶対量をまかなうには、
奥州からだけ、というのでは説明がつきにくい、ということ。
そして、現代の技術で金の生産地をあきらかにできるかも知れない、
っていう可能性が出てきたというのです。
まことに面白い説が出てきたと思います。
わたしにしてみると、まことにうれしい状況になってきたというところです。
大いにこういう動きに期待したいところです。
<写真は、アイヌの丸太船>
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倉本聰さんの「住宅論」

2010年11月17日 05時56分41秒 | リプラン&事業



ことしも、臨時増刊にいくつかチャレンジしていますが、
11月18日発売の雑誌として、
「人の住まい 創るこころ」
と題した一冊を刊行いたします。
これは、東北・秋田の「地域一番」ビルダーと言って過言でない
五蔵舎の住宅作品を中心とした特集号です。
同社は、リプラン東北版発行以来、
ずっと紙上で住宅を発表し続けていただいてきました。
その創られる住宅は、まさに地域の作り手らしい
こまやかな感受性に満ちあふれていて
すみずみまで「ていねいに」創られている様子が伝わってくる家。
大手ハウスメーカーと地域の作り手の違いを
よく「地域を知り尽くした」という表現を使いますが、
そういった言い方が、どちらかといえば、
住宅のハード面の性能要件に近いものを感じさせるのに対して
同社の家では、その地域に暮らすひと、に大きくフォーカスしていると感じます。
角館の屋敷群にも通じるような
湿度のある、秋田の人間風土を表現しているかのようなのです。
そうした、五蔵舎の住宅作品代表作を特集した一冊です。

で、同社代表の岩野社長と話し合っている中で
尊敬する作家・倉本聰さんとの対談企画というのが
大きな希望としてあげられたのです。
まったく想定外のことだったのですが、
「北の国から」「風のガーデン」などの氏の代表作品には
北の地で、生きる拠点としての住宅建築への深い思いが
伝わってくる部分があり、
企画として進行させたところ、倉本さんの了解も得られたのです。
今回の「人の住まい 創るこころ」では、
巻頭特別対談として、倉本聰さんの住宅対談が掲載されています。
北の国からでご存知の、「石の家」や、「拾ってきた家」など、
ドラマを飾ってきた住宅について、独自の視点から、
倉本さんの「住宅論」が語られています。
お願いしたとき、二つ返事で引き受けてくれたのですが、
「いいよ、俺、建築、好きだから」
ということなのだそうです。
その言葉通り、セルフビルドの経験の数々は、
凛とした実体験の重みがあり、
聞く者のこころに響いてくる熱さがありました。
「人間の言葉を聞く」という思いを強く印象した対談でした。

その模様をまとめていますが、
氏の住宅論は、いわゆる住宅雑誌としては
ひょっとすると稀有なものであるかも知れません。
地域の気候風土に根付いてそこで暮らし続けてきた、生活者の目線で語られる、
いわば「北の地からの住宅論」としての意味合いも大きいと思っています。
東北と関東の有名書店で販売いたしますが、
それ以外の地域のみなさんには、
下の当社WEBサイトにて販売いたします。定価780円。
当社直販コーナー

一般のみなさんももちろん、とくに住宅専門家のみなさんにも
オススメの一冊です。どうぞ、ご一読いただければ幸いです。
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手刻みの大根

2010年11月16日 08時03分14秒 | Weblog






最近、「細部にこそ神が宿る」というフレーズが
どういうワケか、頭のなかでリフレインしております。
たぶん、先日、1週間前に見学していた室蘭での住宅事例での
竹の紐組みの様子を見て以来、なんだと思います。
なんでもない、組みなんですが、
それが手でしか、手作りでしか実現しないのだ、
ということを理解してから、
どうしても、このフレーズが頭に宿ってしまった(笑)。

古くからの人間の手業の痕跡は、
明瞭にその時代に生きた人間のことを伝えてくれている。
木を削った痕跡であるとか、
石を砕いた様子であるとか、そういうものが
実はいちばん伝わってくるパワーを持っている。
日曜日にも、刺身のツマに出てきた大根が
おばあちゃんの包丁と手で刻み込まれている、と
看破した方がいまして、建築家の丸谷博男さんですが、
やはりそういうものかなぁと、思い至った次第であります。
建築って言うのは、結局「どう作るのか」ということなのでしょうが、
それには、「計画」的な部分から、
細部の職人さんの手仕事まで、
さまざまな領域があって、まことに複層的な評価基準が存在する。
ただ、正直に作られたモノ、
丹念に作り上げられたモノには、自然と
ある、美しさが伴っていくものなのではないか。
そういうものにおいて、その計画者の考えが、
どのように貫徹しているか、が細部を見ればわかる、ということなのか。
そんなような思いが、頭のなかにわき起こっている。

っていうようなことで、
まず、小さなことにしっかり神経を集中し、
丹念に自らを省みて、事に当たる必要を感じている次第。
そこで、本日朝、大根の手刻みに心を配ってみた次第であります(笑)。
なかなか、難しいですよね。
初めと中程は問題ないけれど、終わる頃には、
どうしても押さえるのが難しくなって大切りにならざるをえない。
神はとても宿りそうにない。
でもまぁ、ちょっと混ぜれば、それほど目立たないか、
っていうように、多少のいいかげんさが顔を覗かせる次第。
毎日毎日は、そうやって過ぎていくしかないのかも・・・必然でしょうね。
しかし、家族の健康を守り、
規則正しい生活リズムを作り出すためにも、
こういったなんでもないことこそが、大事なんでしょうね。
まだまだ、道の遠きを思わざるを得ません。
ってなんのことか、大袈裟すぎましたです(笑)。
いつか最後まで美しく、大根、刻んでみたい。
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築90年和風住宅の食事処

2010年11月15日 06時19分58秒 | Weblog






きのうブログで書いたら、
さっそく建築家・丸谷博男さんからメールをいただきました。
午後3時からふたたび会合があり、
それも札幌の建築家・金田博道さんのご自宅の見学会へのお誘い。
面白そうということで、参加して参りました。
住宅はまことに素晴らしい住宅で、
目の保養を楽しませていただいた次第であります。

で、その後、会食予定であるということで、
早々に帰る予定だったのですが、
日曜日でもあり、参加させていただくことに致しました。
っていうのは、会場が築90年の木造住宅の店舗だというのです。
どうも建築の好きなひとたちというのは
そのへんのツボが共通しているので、
ついつい刺激されてしまうわけなのです。
札幌市東区北7東4ということなのですが、
店の名前を聞き忘れた(笑)。
まぁ、そういうのはそのうちわかるだろうということで、無頓着なんです。
なんともやさしそうなおばあちゃんがいまして、
おいしいごちそうをたっぷり食べさせていただきました。
写真が、北海道の風雪に百年近く耐えてきた住宅を店舗にしている内部の様子。
寒いんだけれど、
気密性にとぼしく、構造材の乾燥度合いは極限的な感じです。
手を掛けて住み続けてきたたたずまいが偲ばれて、
まことに微笑ましい住宅であります。

思うのですが、
「長期優良住宅」という国の施策で
愛着に関する研究とか、長期に亘って維持される人間的側面って、
ほとんど顧慮されることがない。
ひたすら、住宅の性能要件がどうであるとか、
国産木材を利用するというような
いわば「モノ」としての耐久性ばかりを問題としている。
でも、日本の場合、住宅が長きに亘って維持されてきた実際の動機は
「家の存続」という先祖観の部分だったと思うのです。
まずは仏壇があって、神棚もあるという
神聖空間が装置されていることが、
無言のプレッシャーになって、いま生きている人間に
「次の世代に受け継がせていかなければ」という使命感を与えていた。
常識的に考えれば、生活レベルの発想では
そういった部分であったと思うのです。
ところが、現代の「縦割り」官僚の世界では、
みごとに「モノ」だけにこのことを矮小化して、それも深遠に論議する。
こころを論議せず、モノだけ論議する、っていうような
パラドックスが存在していると思います。
現実に北海道で90年建ち続けてきた住宅は
ごらんのような家内部の空間性があって、はじめて可能になってきた。
そんな気がしてなりません。
いちばん初めに論議しなければならないのは、
どうもこういう日本的家意識から、なにを学び取るか、
ということなのではないでしょうか?
そういう論議がないと、結局、日本人の心に染みこんでいかないと思うのです。
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和というものと北海道

2010年11月14日 08時52分24秒 | Weblog






きのうは、建築家・丸谷博男さんを囲む会に参加。
ポルトガルの建築家・シザさんの建築探訪スライドショーに行って参りました。
たいへん楽しい写真の数々を堪能させていただきましたが、
さらに、集まったみなさん同士での交流会も
氏のお人柄を反映して、和気あいあいの楽しいものでした。
で、そのなかにアメリカ東部の出身の方がいまして、
アメリカ人なのですが、奥さんと北海道での暮らしが長く、
しかも、教師として教えているのが
美術史であり、中心的な研究領域は本地垂釈について、ということ。
まぁ、目が点になるようなお話しで、
そもそも「本地垂釈」ということを知っている日本人、
きのうの会でも、ほとんど誰もいないというのに、であります。
で、そこから丸谷さん、すっかり本領を刺激されたと見えて
<氏は、東京芸術大学卒の建築家として、和の空間デザインが本分>
「和」のデザインについてのスライドショーが急遽行われるという展開。
聞けば、アメリカ人を相手に日本人的な「間」のデザインについて
講演した内容というものでした。
大変、お得な講演会をふたつも体験できた次第(笑)。
そこから、北海道の住宅美学論に話が及んで、
百家争鳴状態に突入してしまったのであります。
丸谷さんとしては、意図的な挑発だったのかなぁ?
で、そうなると、
日頃、北海道で暮らしている日本人としては、
やはりいろいろな意見が、みんなある。

和、というくくりで、北海道も無条件で同じ範疇に入れる
というのが、東京中心の発想だと思うのですが、
わたしは、むしろ、中国から漢字を導入してからの変化と同じくらいの
大きな日本社会の転換が、明治の開国であり、
その後、北海道がたどってきた住宅についての変化の歩みは
日本の住宅文化にとって、
始まって以来くらいのインパクトのあることだったのではないかと思っています。
文化のベースになる漢字の導入も
たぶん、数百年を掛けて日本化の努力が傾けられた結果を
われわれは知っているのであり、
それ以前の日本とは、質的に大きな変化を起こしたことなのだと思うのです。
住宅も、日本人的DNAが、積雪寒冷という条件と格闘する中で、
ようやくにして、技術的に克服する過程にあり、
そこから先にはじめて、日本的感受性との調和プロセスがあるのではないか。
単純に、冬場の猛吹雪を暖かい室内から、
気密にすぐれた3重ガラス入り木製窓を通してながめ、
それを感受する楽しみ、なんていう日本人としてはまったく新しい体験を
わたしたち北海道人は、いま、DNAに蓄積しつつある。
また、写真のような「日本人」とは言い切れないこの島の先住民のみなさんの
こういった空間体験も、わたしたちには、
場所の記憶性、とでもいうようなものとして
持っているのかも知れない(写真は檫文期の竪穴住居内部)。
どうしても、この部分では、
簡単には同意しにくい乖離が存在しているのかも知れませんね。
それが、ヨーロッパでの「北欧デザイン」的なものとして
北海道から発信できるようになるのかどうか
ポイントは、どうもそのあたりのような気がしています。
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城壁の建築工法

2010年11月13日 09時59分33秒 | Weblog




城郭建築というのは、
日本の建築技術にとって、たぶん相当の進化をもたらせた
事業機会であったろうと想像できます。
戦争は、技術発展にとって最大のチャンスだったのは
飛行機の歴史を見ればわかりやすい。
経済的な利権を巡って、戦争形態で互いに争い合う時代にあっては
頑丈な城郭構造が強く求められたでしょう。
しかしそうはいっても、構造的には木造が基本であって
それをどこまで頑丈に作れるか、という勝負だったのでしょう。
こういう技術は、たぶん、銭の力というものだけで、
自由に勢力圏を越えて流通していったものと思います。
秀吉という権力者で、感心するのは、
この土木建築技術について、戦争自体に活用した点でしょうか。
かれが最初に世に出たのが、墨俣の一夜城というのは象徴的です。
たぶん、かれは信長に採用されるまで、
こういった地下人層を彷徨っていた人生だったのだと思います。
戦争の技術について、積極的にそういった階層の動員を計った。
それがその後の、かれの出世戦争である、
中国征服での大土木工事作戦に繋がっていった。
城攻めに自然の地形と、土木工事を持って当たるというのは、
かれの独創とは言えないまでも、きわめて独特の作戦計画だった。
まわりの幕僚たちはびっくりしただろうと思うのですが、
信長はきわめて高く評価していたのでしょう。
こういう戦争のやり方に対して、
柴田勝家のような、常識的な武闘派の将軍たちは反発し、
蔑んでいたというのは、理解しやすい。
尋常な勝負、というような作戦とは言えない。
調略と土木建築作戦という、ひたすら裏道と見える作戦だったのでしょう。
しかし、こういう考え方には合理性があり、
その後の戦争形式や、城郭建築を変えていったでしょうね。

この城壁の模型は、
その秀吉に滅ぼされた小田原城のものです(笑)。
なんですが、城そのものは江戸期の建築のものであり、
その当時の建築技術に基づいて再建したときに、
事前に土の調合具合とかを見定め、経年的な変化を確認するための模型。
鉄砲の発達の結果、
土塗りの城壁はいろいろ工夫が積み重なったことでしょうね。
幾層にも塗り重ねられた様子に、そういう想像が膨らみます。
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建物のなかの「川」

2010年11月12日 07時04分51秒 | Weblog





写真は、登別市内の回転寿司の床面です。
技術的な問題としては、そう大きな問題もなく
こういった造作は出来るものと思いますが、
このようなアイデアを、建て主との関係で作り出せる、というのが
よくやったな、と思える部分だと思いました。
店舗という、居住性というよりも
非日常的体験性のほうに大きなウェートがある建築ですから、
外観の訴求力とともに、内部では「もう一回見たい」
と思わせる話題性というものが求められる。
そんな設計意図と言うことになりますが、
自分でも、現場的に作っていく人間の場合、
やはり、作り上げる細部にこだわっていくものだろうと思います。
そして、細部にいろいろな物語性を作っていけば行くほど、
完成度が高まっていくものであり、
そこに宿る「神」のメッセージ力が向上していくのかも知れない。
川を作る、という端的な目的意識で、
その河原の雰囲気を造作し、水とその周辺を
丹念にイメージを膨らませていく作業は、
新しいモノを作り出そうとする、気合いのようなものを感じる。
地域のなかでものを作っていく立場の人間としては、
「今ここにないもの」という表現目的が見えてくるだろうし、
さらに進んでいけば、どこにもないもの、
自分自身のイメージの中でも、見たこともないもの、
っていうような場所に立ち至っていくものだろうと思う。
細かい部分まで、結構な作り込みの様子が見えてほほえましい。
「よく見てみる」ということを見る人間との間で成立させるまで作る、
っていうようなことなのでしょうね。
そうすると、見る人間と作る人間との1体1の関係性になって、
そこでどんな思いを持ってもらえるか、
というようなレベルまで行き着くことが出来る。

川を作る、と決めたら、
その目的に向かって、いまできることを全部やってみるのでしょう。
そこにウソもなく、正直に立ち向かう、ということ。
作っていく、ということのいろいろな意味合いを
感じることが出来たと思いました。
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尖閣ビデオ問題と忠臣蔵

2010年11月11日 07時56分19秒 | Weblog





尖閣ビデオの問題、流失させた本人が判明したようです。
たぶんそうなるなぁと思っていたら、案の定、
世論では、罰する必要はない、
というような論調が見えるのではないかと思います。
腰のフラフラしている菅直人内閣、
どのように対処していくのか、
まぁまさか、処分しないというような対応はしないとは思いますが、
先行きの世論を見ながらの対応になると思います。

今回の事件、
アナロジーできるのは、元禄討ち入り事件かなぁと思います。
為政者の事件処理に対しての異議申し立てであって、
それが拍手喝采される、という意味合いでは実に似ている。
ただし、事件の今後の処理という部分では、
大衆社会状況の中での民意、というような不確定な部分があり、
たとえば小沢事件のような
超法規的な「民意」へのおもねり対応などを見ると
ひょっとすると、「寛大な」処分みたいな「大岡捌き」で
人気取りを計る可能性もあるのではないかと、感じられます。
まぁ元禄事件では実際に殺人行為も行われていたのですから、
同列に論じることではなく、
また、罰則として死刑になるようなこともないでしょうが、
為政者の側に、おおくの困難な判断力を求めるという意味では、
もっと難しい問題かも知れません。
最低限、このビデオ流失者は、国家公務員としての地位は失うことに
なるでしょうが、その後、
いろいろ、引く手あまたということは想定できますね。
元禄事件でも、赤穂浪士への求人希望は諸藩で高まったのだそうです。

それにしても、
今回の尖閣事件、本来の日中間の国境問題という側面から
このビデオ流失事件のほうに
報道の基本的留意点が移ってきており、
また国民世論的にも、中国漁船に対する、あるいは
中国国家への反発、という側面はやや収まっていると思います。
中国国内ではこのビデオに対して、
「よくぞぶつけた」みたいな反応もあったと報道されていますが、
いまのところ日本側の国民世論は、冷静であると思います。
しかし、この流失事件後、
どのような方向に世論が向かっていくのか、
見通せない部分もありますが、
事件の直接的な衝撃性は薄らいでいくことが予想され、
単純な国家間世論の衝突には向かわない可能性はありますね。
そういう意味では、こういったかたちの流失が
結果的には日本社会では自然であったと、言えるかも知れません。
しばらくは、世論の向かう先に注目が必要だと思います。
<写真は武蔵野の面影を感じる武蔵境駅前の様子>
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