これはクリスマス・ローズ。今が盛りなのかあちこちで見かけます。シックな花の色がなんとも魅力的。
映画監督の河瀬直美さんが東大の入学式で述べた「祝辞」の中の「ロシアを“悪者”とするのは簡単だ」というくだりが、波紋を呼んでいますが、正直言って私もその部分には違和感を抱きました。
東大ホームページに全文が載っているので、興味のある方は読んでみて下さい。
私が読んだ限りでは祝辞の主旨は
・幼い頃、自分は複雑な家庭環境で育ったが、8ミリカメラを持つことで世界の見え方が変わった。
ワクワクとその小さな「窓」から、世界には何があるのかを探求することになった。
・昭和、平成、令和と激動の時代を生きてきたが、今は情報過多の時代で、膨大な情報が物凄いスピードで現れては消えていく。
・でもそれに流されずに、「自分だけの窓」を持ち、世界を見つめてコンタクトして欲しい。きっと真実はそこに見出だせる。
…と、よく読めば映画監督らしい切り口で、要するに「自分だけの視点で物事にあたり探求せよ」だと思うんですが。
映画監督って「現実を疑ぐってかかれ」が仕事でしょう。
世間一般ではこう言われてるけど、それ違うんじゃない?
私のファインダー越しにはこう見えるわ。
そういう人がカンヌやヴェネチアで評価高いと思うんですか、河瀬監督の映画ってあまり社会風刺や政治批判は感じられない。
ごく普通の人の個人的な小さな感情の揺れ動きを、水墨画の滲みみたいに表現する作風だと思うので、多分この祝辞で「ロシアにもロシアの正義がある」という表現を入れたのは、「プーチンさんにもプーチンさんなりの感情があるわけで、単なる悪魔じゃないはずよ」と言いたかったのでは。
職業柄、今回のウクライナ侵攻を「自分が映画に撮るとしたら」という捉え方をしていて、そうなるとダイナミックな戦況のうねりとかより、個人個人の感情の揺れに着目する。
プーチンなりの正義を貫いていたら、いつの間にか最悪の侵略者になってしまった。そこをもっと掘り下げて理解する必要がある、と言いたいのではないでしょうか。
翻って私達も、「プーチンが悪だから私は正義」という短絡思考に陥っていないか。
自分は正しく生きているつもりでも、誰かを踏みつける方向に行ってないか?人間はそれほど危うい存在ということ。
そこに気をつけて、若い学生さんたちには未来を切り開いて行って頂きたい、ということだと思うんですが、時勢柄この「ロシアを悪者とするのは簡単だ」って表現が、まずい。
ブチャのひどい遺体や避難する人を狙った駅へのミサイルや、ああいう報道を見てまず普通の人は「ひどい。ロシアひどい」という感情が沸くと思うんで、「ロシアにも正義があるのよ(だからこの殺人もアリなのよ)」と言われてしまうと、「アンタ頭おかしいよ」になってしまう。
それだと凶悪犯全てが「正義の為にやってるから」って事になってしまう。
若い人に「悪いものは悪い」と言い切らない大人って、アカンでしょ。
戦争で一般市民が無惨に殺されることは、この世で最も罪深い、って事を、こういう公式の大事な場では、第一声で発して欲しかった。
物作りをする人が「独自の視点」を持ち思想を述べる、作品に表現するのは自由だけど、それは河瀬監督個人の活動でなされば良い事。
「祝辞」で「ロシアにも正義あり」と言ってしまうと、「ひょっとして河瀬さんも、殺戮をフェイクニュースだと思ってるの?」「ロシアもウクライナもどっちもどっちと思ってるの?」と、色々勘ぐってしまう。
東京五輪映画のNHKドキュメントの字幕問題でも、監督としてのコメントが全く説得力がなく、私はあの辺りから「河瀬さんも権力者側に行っちゃったかなあ」と思ってるんです。
なんだかね。
ウクライナ侵攻を引き合いに出すなら、声を上げられないまま惨殺された、罪なき一般人の気持ちに寄り添って欲しかった。
河瀬さんの作風ならそっちの方だと思うのに、「偉い人」になったことで、感覚も変わったのかなあと思います★
映画監督の河瀬直美さんが東大の入学式で述べた「祝辞」の中の「ロシアを“悪者”とするのは簡単だ」というくだりが、波紋を呼んでいますが、正直言って私もその部分には違和感を抱きました。
東大ホームページに全文が載っているので、興味のある方は読んでみて下さい。
私が読んだ限りでは祝辞の主旨は
・幼い頃、自分は複雑な家庭環境で育ったが、8ミリカメラを持つことで世界の見え方が変わった。
ワクワクとその小さな「窓」から、世界には何があるのかを探求することになった。
・昭和、平成、令和と激動の時代を生きてきたが、今は情報過多の時代で、膨大な情報が物凄いスピードで現れては消えていく。
・でもそれに流されずに、「自分だけの窓」を持ち、世界を見つめてコンタクトして欲しい。きっと真実はそこに見出だせる。
…と、よく読めば映画監督らしい切り口で、要するに「自分だけの視点で物事にあたり探求せよ」だと思うんですが。
映画監督って「現実を疑ぐってかかれ」が仕事でしょう。
世間一般ではこう言われてるけど、それ違うんじゃない?
私のファインダー越しにはこう見えるわ。
そういう人がカンヌやヴェネチアで評価高いと思うんですか、河瀬監督の映画ってあまり社会風刺や政治批判は感じられない。
ごく普通の人の個人的な小さな感情の揺れ動きを、水墨画の滲みみたいに表現する作風だと思うので、多分この祝辞で「ロシアにもロシアの正義がある」という表現を入れたのは、「プーチンさんにもプーチンさんなりの感情があるわけで、単なる悪魔じゃないはずよ」と言いたかったのでは。
職業柄、今回のウクライナ侵攻を「自分が映画に撮るとしたら」という捉え方をしていて、そうなるとダイナミックな戦況のうねりとかより、個人個人の感情の揺れに着目する。
プーチンなりの正義を貫いていたら、いつの間にか最悪の侵略者になってしまった。そこをもっと掘り下げて理解する必要がある、と言いたいのではないでしょうか。
翻って私達も、「プーチンが悪だから私は正義」という短絡思考に陥っていないか。
自分は正しく生きているつもりでも、誰かを踏みつける方向に行ってないか?人間はそれほど危うい存在ということ。
そこに気をつけて、若い学生さんたちには未来を切り開いて行って頂きたい、ということだと思うんですが、時勢柄この「ロシアを悪者とするのは簡単だ」って表現が、まずい。
ブチャのひどい遺体や避難する人を狙った駅へのミサイルや、ああいう報道を見てまず普通の人は「ひどい。ロシアひどい」という感情が沸くと思うんで、「ロシアにも正義があるのよ(だからこの殺人もアリなのよ)」と言われてしまうと、「アンタ頭おかしいよ」になってしまう。
それだと凶悪犯全てが「正義の為にやってるから」って事になってしまう。
若い人に「悪いものは悪い」と言い切らない大人って、アカンでしょ。
戦争で一般市民が無惨に殺されることは、この世で最も罪深い、って事を、こういう公式の大事な場では、第一声で発して欲しかった。
物作りをする人が「独自の視点」を持ち思想を述べる、作品に表現するのは自由だけど、それは河瀬監督個人の活動でなされば良い事。
「祝辞」で「ロシアにも正義あり」と言ってしまうと、「ひょっとして河瀬さんも、殺戮をフェイクニュースだと思ってるの?」「ロシアもウクライナもどっちもどっちと思ってるの?」と、色々勘ぐってしまう。
東京五輪映画のNHKドキュメントの字幕問題でも、監督としてのコメントが全く説得力がなく、私はあの辺りから「河瀬さんも権力者側に行っちゃったかなあ」と思ってるんです。
なんだかね。
ウクライナ侵攻を引き合いに出すなら、声を上げられないまま惨殺された、罪なき一般人の気持ちに寄り添って欲しかった。
河瀬さんの作風ならそっちの方だと思うのに、「偉い人」になったことで、感覚も変わったのかなあと思います★
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