私の妻は料理が上手なほうだった。オリジナルレシピで料理を作ることなどはできなかったが、丁寧に作って、味もなかなか良かった。前にも書いたが、ハモやカキのフライ、コロッケなどの揚げ物は得手だった。最後の入院をする少し前に、広島産の小粒のカキのフライを作ってくれたが、非常に良くできた。ちょうど居合わせた息子達も喜んで食べたが、これが妻の最後の揚げ物料理になった。料理ではないが、良い指導者にめぐり合ったこともあってパンには情熱を注いでいて、さまざまなパンを焼いたが、最終的には非常においしい食パンを3日に一度くらい焼いてくれた。パンを焼く時は狭い家中に芳香が立ちこめて、今もその香りを鼻腔の奥に思い出す。しかし今ではすべてが遠い過去の思い出になってしまった。
そんな妻も結婚当初から料理上手だったわけではない。もう50年以上も前のことだからクッキングスクールに通ったこともなく、昔のたいていの娘がそうだったように母親の手伝いをしながら見よう見真似で覚えたようだったが、結婚当初はどちらかと言うと料理の腕前は覚束ない感じだった。包丁を持つ様子も何かぎこちなく、とりわけ魚をさばくのが苦手で、あるときなどはアジをさばいていて、悲鳴を上げたのでとんでいくと、真っ赤な鰓が出てきて怯えたのだった。怖い怖いと子どものように泣いたのがおかしかった。思えば頼りないことだった。
味付けもあまり上手くなく、とくに実家は6人家族だったので、2人前の塩加減がなかなかつかめなかったようだ。ある日の夕食に煮物が出されたが、口に入れると非常に塩辛くとても食べられたものでなかったので、思わず「こんなもの食べられるか」と不機嫌に吐き捨てるように言った。妻は言い返しもせずに悲しそうに黙っていた。その顔を見てすぐに後悔したが、新婚早々で見知らぬ土地に来て、しかも勤めにも出ていたのに一生懸命やっていた妻に何とひどいことを言ったのかと、その私の横暴さと妻の悲しそうな顔を思い出すと今も胸が痛み、心の中で詫びている。
そんな妻も子どもができ、勤めを辞めて専業主婦になってからはしだいに料理の腕は上がっていき、料理上手だった母も認めるようになった。だいぶたった頃、両親の家に行った時に、まだ出始めた頃のピザをトマトソースも台も作って焼いて、新しい食べものの好きな父を大いに喜ばせた。おとなしそうに見えて根はがむしゃらなところがあったようだ。
妻が逝って久しい。今の私の食生活は貧相なものだ。自分で作ることはあまりしないし、そそくさと食べてしまって味気ない。そばに妻がいてくれたら、いろいろ話しながら食べるのにといつも思う。そうであれば、どれほど食事が心休まる楽しいことか。まして、妻の手料理をもう一度食べたいが、叶わぬことになってしまった。
そんな妻も結婚当初から料理上手だったわけではない。もう50年以上も前のことだからクッキングスクールに通ったこともなく、昔のたいていの娘がそうだったように母親の手伝いをしながら見よう見真似で覚えたようだったが、結婚当初はどちらかと言うと料理の腕前は覚束ない感じだった。包丁を持つ様子も何かぎこちなく、とりわけ魚をさばくのが苦手で、あるときなどはアジをさばいていて、悲鳴を上げたのでとんでいくと、真っ赤な鰓が出てきて怯えたのだった。怖い怖いと子どものように泣いたのがおかしかった。思えば頼りないことだった。
味付けもあまり上手くなく、とくに実家は6人家族だったので、2人前の塩加減がなかなかつかめなかったようだ。ある日の夕食に煮物が出されたが、口に入れると非常に塩辛くとても食べられたものでなかったので、思わず「こんなもの食べられるか」と不機嫌に吐き捨てるように言った。妻は言い返しもせずに悲しそうに黙っていた。その顔を見てすぐに後悔したが、新婚早々で見知らぬ土地に来て、しかも勤めにも出ていたのに一生懸命やっていた妻に何とひどいことを言ったのかと、その私の横暴さと妻の悲しそうな顔を思い出すと今も胸が痛み、心の中で詫びている。
そんな妻も子どもができ、勤めを辞めて専業主婦になってからはしだいに料理の腕は上がっていき、料理上手だった母も認めるようになった。だいぶたった頃、両親の家に行った時に、まだ出始めた頃のピザをトマトソースも台も作って焼いて、新しい食べものの好きな父を大いに喜ばせた。おとなしそうに見えて根はがむしゃらなところがあったようだ。
妻が逝って久しい。今の私の食生活は貧相なものだ。自分で作ることはあまりしないし、そそくさと食べてしまって味気ない。そばに妻がいてくれたら、いろいろ話しながら食べるのにといつも思う。そうであれば、どれほど食事が心休まる楽しいことか。まして、妻の手料理をもう一度食べたいが、叶わぬことになってしまった。