できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

ほんと、アタマが痛くなる・・・。

2018-03-09 21:07:26 | 国際・政治

なんか今日の午後からの佐川国財庁長官辞意表明とか、それに関する夜の麻生財務大臣の会見とか・・・。

あるいは、そこに至るまでの財務省の森友問題関連文書の「書き換え」(改ざん?)問題に関する政権側の対応とか。

そういうのを見ていると、どうしても私、学校事故・事件に関する従来の教育行政や私学の設置者が行ってきた「危機管理」と、「どこか似てるなあ」って思ってしまうんですよね。

要するに「徹底的に調査を行った結果、こことここに問題がありました。その結果をここに正直にご報告させていただきます。国民のみなさんの信頼を損なう結果になり、たいへん申し訳なく思います。ごめんなさい。つきましては、関係者に謝罪させ、厳正な処分を行うとともに、今後の再発防止策についてはかくかくしかじかを行います」というタイプの「危機管理」が、全くといっていいほど「できない」。言うまでもなく、本来、あるべき「危機管理」って、こういうかたちだと私などは思うわけですが・・・。

そのかわりに、「できるだけ事実をオープンにせず、人々の記憶が薄れるのを待つ」「その間、別の話題に人々の関心をそらせる」「その話題に人々の関心が集まってきたら、たいした問題ではないように言うか、自分たち以上に別の誰かが悪いように言う」「そういう自分たちの危機対応に援護射撃をしてくれる勢力を日頃から育てておく」「いよいよやばい段階に来たら、屁理屈でもなんでもいいから自分たちの都合のいい説明をして、それにあうように書類をつくる」「最悪、責任を問われるような事態が来たら、最末端の人から順にとかげのしっぽ切りをする」等々。

いま、ちょうど森友問題関連文書のこととか、今日の佐川長官辞意表明のこととかで現れている政権側の対応って、こんな感じですよね。

そして、こういう今の政権側の対応って、これまで学校での重大事故・事件発生時に「危機管理」と称して、教育行政とか私学の設置者がやってきたことと、どこか似てませんか?

このところ私は学校事故・事件の事後対応問題について、「危機管理とこころのケアを疑え」と思うことが多々あるんですけど、なんかこんな感じで「危機管理を疑うってことは、学校事故・事件の問題を越えて、いろんな場面にも通じる問題やな~」と思い始めてます、ほんとに。たぶん、日本の行政権力のあり方に関わる何か本質的な問題の部分で、どこかに共通するものがあるような気がしています。

まあそんなわけで、ツイッターとかニュースとかでこの問題に触れていると、だんだん「アタマ痛いわ~」って感じになってきました。なので、しばらくの間、どうしても「アタマ痛いわ~」ってときは、アニメ(プリキュアかラブライブか)とお花と本の世界に逃避します。


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