※ほかのことをメインで書いた記事なのですが、途中で飛鳥会事件のことにも触れているので、こちらにも転載します。
産経新聞の今日のネット配信社説 http://www.sankei.co.jp/news/editoria.htm
そろそろ新聞各紙のネット配信記事のレベルでは、例の「飛鳥会」関連のニュースはあまりネタになってこない傾向です。ですから、今後は少し、「飛鳥会」関連の話はお休み、ということになりそうです。
ですが、今まで大騒ぎして新聞各紙で報道したことが、今後の大阪市議会や市政改革でどうなっていくのか、注目しておきたいと思います。たぶん、続報も新聞各紙、書かないような気がしますので。
もしも昨日書いたとおり、「しょせん、飛鳥会のように、一番たたきやすいところをたたいて、お互いの顔が立つ」ような形で、大阪市議会や市の行政当局が今後、動くのであれば、「これじゃあ大阪市の行財政改革なんて、まぁ、財政再建も住民の福祉向上も、低次元のレベルでの議論に終始するだろうな」と思うので。
それよりも、「教育基本法改正」をめぐる新聞各紙のネット配信記事。こっちのほうを少し、問題にしていきましょう。
それにしても、なんですか、この産経新聞の社説。「民主案もいいではないか」ですって。先日も書いたとおり、民主党案は政府案よりもヒドイ部分もたくさんあるし、「どっちもどっち」で、「今の教育基本法が必ずしもいいとは思わないが、こういう理由でなら、そもそも改正する必要があるのか?」というのが私の意見。そこから考えると、この産経新聞の社説の書き手も、あんまりちゃんと日本の教育史や最近の教育改革の動向を批判的には勉強していないか、もしくは、ここ最近の動向などに「両手を挙げて賛成」という立場なのかな、という気がします。そして、こんな記事を書いていると、記事の書き手の資質も問われますよ。
特に今回の社説のこの部分、私に言わせると「これを文言化したものを条文に入れたら宗教界の堕落をもたらすだけ」で、こんな理念を条文化するなどもってのほか、教育基本法改正の理由になりませんよ。
「日本の地域に伝わる伝統行事や生活習慣は、それぞれの神社や寺などと深い関係にあり、それらを子や孫たちに継承したいという宗教界の願いが込められている。自然に対する畏敬(いけい)の念やその恵みに感謝する気持ち、死者をいつくしみ先祖を尊ぶ心などの日本的感性をはぐくむためにも、宗教的な情操や感性の涵養は必要であろう。」
あのね~、この産経新聞の社説書いた人。ちょっと考えてください。各地に伝わる伝統行事や生活習慣のなかには、それぞれの神社や寺などと深い関係がある。そして、それを子や孫に継承したい。それは別にかまいませんが、それこそ、各神社や寺が勝手に自分たちで地域住民に呼びかけ、協力してくれる人を募って、信者を獲得してそういう伝統行事や生活習慣を継承すればいいわけです。それが各神社・寺がいくらやってもできない、あるいは、やってもついてこないような伝統や生活習慣なら、しょせん、それまでのものではないですか。なぜそれを「宗教的情操や感性の涵養」という「教育基本法改正」に結びつけなければいけないのか。理由が本当によくわかりません。
あるいは、日本の各地には、神社や寺、すなわち神道や仏教とは異なる信仰の持ち主だって住んでるかもしれない。そういうことへの「想像力」って、この社説の書き手にはないんでしょうかね?
さらに、この社説の書き手は、何の疑いもなく「自然に対する畏敬(いけい)の念やその恵みに感謝する気持ち、死者をいつくしみ先祖を尊ぶ心などの日本的感性」って書いてます。ですが、日本に住む外国籍の人々、あるいは神道や仏教以外の信仰を持つ人々には、「自然に対する畏敬(いけい)の念やその恵みに感謝する気持ち、死者をいつくしみ先祖を尊ぶ心」がないのでしょうか。その人たちには、この点について、その人たちなりの感じ方・思い方があるはずです。そんなこと、ちょっと「想像力」をめぐらせればわかることなのに、なぜこれが「日本的感性」と呼ばなければいけないのか。私には全然理解できないし、「書き手の資質が問われる」としか言いようがありません。
それに、今までの教育基本法だって、条文をちゃんと読んでくださいね。「宗教に対する涵養の態度」の尊重ということば、ちゃんと現行の教育基本法第9条に書いてあります。と同時に、国公立学校における政教分離の原則も、この第9条には書いてあります。さらに、「信教の自由」と「政教分離」の原則は、今の日本国憲法にもとづく限り、第20条でしっかりと書き込まれていて、こんな教育基本法の改正案を盛り込んだら、即刻その段階で「憲法違反の疑い」として、誰かが訴訟を起こすかもしれませんよ。
そういうこと、この社説の書き手はちゃんと勉強してものを言ってるんでしょうか? 私が社説から見た限りでは、どうもそうではなくて、各政党案と政府案を比較するレベル、それも、自分の価値観のなかだけで議論しているようにしか思えません。だから、「書き手の資質が問われる」と言ったわけです。
ちなみに、敗戦直後に当時の文部大臣として教育基本法制定に深くかかわった田中耕太郎は、『世界法の理論』など、法学者としても著名であるともに、カトリックの信者でもありました。その彼が、戦前期の宗教に対する国の施策を見て、カトリック信者の立場から、「信教の自由」と「政教分離」の原則を法のなかでつらぬくことについて、彼なりのこだわりをもっていたことは、少し考えればわかると思うのですが。
もちろん、田中耕太郎の当時の思想には、今日の時点でみれば、限界や問題点も多々あると思います。しかし、田中耕太郎ら、教育基本法制定当時の知識人より「さらに上を行く」ような改正案なら支持もできます。ですが、その当時の人々よりも国際感覚も、「信教の自由」や「政教分離」の原則も後退させるような、そんな教育基本法改正案、私はとても支持できません。それこそ、日本の知識人たちの「思想的伝統」をないがしろにするものではないのでしょうか。今回の社説の書き手に、ぜひ聞いてみたいところです。
<追記> 2006年5月23日(火)
この日記帳ブログを書いたあと、次のサイト(ブログ?)で私のこの日記の文中にある言葉が引用されています。また、私がこの日記帳ブログで、他の日に取り上げた「飛鳥会事件」のことも、次のサイトで紹介され、「これこそ公正・中立の立場」と高く評価してくださっています。
しかしながら、私が自分の5月22日・23日付けの日記帳ブログで書いているとおり、下記サイトでの高い評価への感謝の思いと、このサイト運営者がネット上で大阪市の問題に対していろいろ取り組むことに敬意を表しつつも、どうも私とは基本的なスタンスがちがうように感じていますし、そこには「誤解」もあるように思います。だから、上記サイトからこの日の投稿分にアクセスされた方は、ぜひ私の5月22日・23日付けの文章も読んでいただければ幸いです。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。