この建物は何度か外壁を改装している
屋根のデザインは1930年代の主流
共同炊事場
人はほとんど歩いてなく宅配便のバイクの方が多い
前世紀のこの近辺とその後の違いはエアコンの室外機がないだけ Noblex135U
旧城内の老西門付近に行ってみた1と2の続き 今回はモノクロで やっぱりこの街はモノクロが一番よく似合う。
再び老西門付近へ行ってみた。以前は偶然知り合った上海人と歩いたが、やっぱり一人で行動しないと写真は撮れない。10年以上前までは、旧城内と言われていた人民路・中華路の内側は地図なしで歩けたが、今は無理。それは、ほとんどがビルになり私が知っているランドマークが全て消滅したからだ。今回も地下鉄の老西門駅に降りたが、旧城内へは前回と違う路から入ろうと思ったら路に迷ってしまった。とりあえず、以前行った場所で撮り残した場所へ行ってみると、私の名前を日本語で呼ぶ人が。そう、前回偶然会ったあの人。今回も一緒に周ろうと誘われたが、お断りし軽く立ち話をして別れ、彼は黄色いシェアサイクルで目的の場所へ。
今回はまだ立ち退いてない生活感のある場所を探すのが目的だったが、やっぱり難しいね。この付近、夜歩いたらどんな風景なのか少し興味があるが、三脚が必要なのでそれはまた次回に。
☆宝塚歌劇団の問題は、アルアルだろうな。歌舞伎や相撲の世界もそうだし伝統芸能の世界は一般人には分からない村社会がある。ジャニーズの件や日大や日本の古い企業も含め、日本は昔の悪しき村習慣からの開国時期かも知れないね。1970年後半の話だが、私が東京でスタジオマンだった時代も、六本木スタジオでは同じような新人イビリがあった。これは、当時NHKに「you」という若者向けTV番組があり、糸井重里が司会し番組のテーマ曲は坂本龍一が担当し、ゲストは誰でも知っているその世界の第一人者が出演していた人気番組だった。この番組で紹介されたのが、カメラマンを目指す裏スタジオマンの世界。当時は住み込みでスタジオに寝泊まりし飯も当番制で、とりあえず体一つで撮影テクニックを学ぶ場だった。当時の六本木スタジオの給料は3万円でチーフになりやっと5万円もらえた(最低賃金が約8万円の時代)。そして、次は誰かのカメラマンの助手になるのが次のステップだが、そこでも有名カメラマンの助手は給料は10万円くらい。その後徐々にスタジオマンになりたい人が激減し、やっと世間並みの給料がもらえるようになり社会保険も完備。そして、女性はスタジオマンとして雇わなかった時代が長かったが、1980年代後半から人手不足でやっと女性に門戸が開かれた経緯がある。そして、現在の写真の学校は女性の方が多いし、現役女性カメラマンが相当増えた。
日本の政治の世界も村社会、そろそろ政治屋から政治家に変わらなければならない時代になって来たと思うよ。過去の歴史をみると、日本は外圧でやっと変わる国だからね。という事は、日本国民全体が自分達で政治を変えようという意識を持ってないとも言えるのは、平和だからだろうな。
80年代前半にスタジオマンしてました。
給料は記述の通り 笑
殴る蹴る鉄拳制裁が普通でした。
辛かったなぁ〜でも懐かしい。
そうでしたか、六本木は赤坂と同等に都内で一番厳しいスタジオだったと思います。
私は西麻布のスタジオ・ユーだったので、六スタの前を通って六本木駅に向かう通り道でした。
その後、独立してからは、タレントの撮影で何度か使った事がありました。
しかし、六スタでよく耐えましたね。
僕も10年間運動部員でしたが、ある意味プロですよ、だって大会があれば授業を休んでも欠席にならないし、競技成績次第で、進学、就職してきた訳ですから。
その観点で見ると、宝塚歌劇団員は、常識を超えた芸や美しさを求められる訳ですから、一般常識の環境からは、残念ながら生まれない気がします。
もちろん、だからと言ってパワハラやイジメが許される訳じゃないですけと。
☆芸能や芸術、プロスポーツの世界の常識を一般常識で判断しちゃいけないと思いますね。
とコメントをいただきましたが、まぁ、そのとおりで理解は不可能でしょう。
それは、他国の法律も政策も同じようなものですもんね。
そろそろ日本は、パワハラやイジメなど昔の悪き習慣から脱却して欲しいというより、変わるべき時期だと思います。
なんにも知らないので、こんなもんだろうくらいに思ってました 鈍感力
その年入った新人が13人くらいいて、
夏休み終わったら3人しか残ってない〜でしたね。
新人いじめ 高価な機材を扱うので厳しくされました。
先輩同士が掴み合いのケンカしたり、殴り合い、連帯責任の制裁などなど「あ〜あ、またかぁ」なんて。
個人的に一番辛いのは睡眠時間が短い事でしたね。
いつでも眠かったです。
私が現役時代、当時の六スタの話は噂で知ってました。私が在籍したスタジオは社長がNYで修行した人だったので、給料も最低賃金をもらえましたが、他のスタジオには内緒にしとけと言われました。
喧嘩や殴り合いなど一切ありませんでしたが、給料日の翌日に出勤しない奴や夜逃げはありました。
睡眠時間が短いのが辛いのはよくわかります。
オーディオ機器の撮影の時などの、ダブリング時に寝息が聞こえて来た事もありましたね。
HAWAIIに遊覧飛行の会社も経営してたとか。
ビカビカのクラシックベンツに時々乗ってきて、
スタジオマンに掃除させる、と言っても
ちゃんとしてるスタジオマンにしか掃除させませんでした。
自分はそうなる前に卒業しましたので触れる事もなく。
スタジオエビスはいいんだよ〜。
麻布スタジオは和気あいあいなんだよ〜等
噂は聞いていました、いいなぁ〜なんて。
オーディオ撮影 タングステン照明で撮ってましたね。
川瀬さんという専門のカメラマンが地下4スタに入るとよくヘルプさせられてました。
長丁場で眠かった。
ストロボ照明で35mm延々撮るスタイルのスタジオも眠くて「オッケー!」を言えなくなったり、
スタジオで立ったまま夢の世界に入り込んでたり。
掃除道具入れの中に隠れて寝たりしてました。
先輩に見つかると即殴る蹴るでしたが、本能には勝てず 笑
エビスや麻布は、よく使いました。
エビススタジオが出来た前後から、都内のスタジオも待遇が変わったような気がします。
いずれにしても、アズさんはお金に変えられない経験をした訳ですから、これからどんな境遇にも立ち向かえる強さを身に付けたと思います。
ひとときタイムスリップできました。
30年カメラマンを続けてこれましたが、
コロナ下の時間を使って資格を取り、
還暦にして就職することにしました。
なので写真関係は休日で関西圏のみで。
資格を取り就職との事。
正しい選択だと思います。
私も10年以上前に職業カメラマンとして足を洗いました。ただ、思い出したようにたまに依頼が来ますが、条件に合う仕事のみ受けてました。
全ての日系企業ではありませんが、上海での日系仕事のギャラは日本が基準になっていますが、こちらの今は世界基準に合わせているので、日本と違い世界基準のギャラが支払われます。「予算がないです」が日系企業の口癖でした、
という事で、今は写真機材の製造関連の仕事をしてますが、これもコロナの影響が大きくとても厳しい状況です。私も来年はどうするか、今悩んでます。