私には、どうも偉いさんの言う事が、よく判らん。今の首相みたいな語調ではないにしても、言いだしっぺなところがあるし、それに底がない。受け皿がない話になっているので、こんがらがる。
殊に私達の在り方とも言える「民主主義」という事にもなると、腰が落ち着いていないと、話がまとまらない。まとまらないどころか「烏合の衆」に、なる。
「民主主義」の基本は、「自由、人権、平等」にある。しかし、この定義が曖昧になっている。
「自由、人権、平等」を別々に語るのも面倒なので「自由」ということに置き換えて語る事にするが、我々は「自由、自由」と言うけれども、本当に「自由」というものを理解していての「自由」なのだろうか。
よく考えてみると、我々が「自由」とは言ってはいるが、それは「管理」され、「制約」されたものの中にあっての「自由」でしかない。
試しに言うと、「行動の自由」というけれども、地球上とか空気がある所とか、また食べ物を撤収できる、という管理下や制約下における以外の「自由」はありえない。
となると、「自由」というのは、言葉だけが独り歩きしていることになり、それに我々は追い立てられているという事になる。こんな具合だから、血脈を保とうとかして、外国の人に借り腹して子供を産んでもらうということまでする。
このように、我々がいう「自由」というものは、その実は「管理」され「制約」されたものである。
こうした「管理、制約」された中にではあるけれども、真に「自由」になれることが出来る。それは「信仰の世界」においてである。
この「信仰の世界」、「宗教の世界」では、直感的に「自由」になれるものであって、簡単になれるものでもない。
このために、常に「良い思い」を保ち、「善い行い」を心掛けていかなければならない。
殊に私達の在り方とも言える「民主主義」という事にもなると、腰が落ち着いていないと、話がまとまらない。まとまらないどころか「烏合の衆」に、なる。
「民主主義」の基本は、「自由、人権、平等」にある。しかし、この定義が曖昧になっている。
「自由、人権、平等」を別々に語るのも面倒なので「自由」ということに置き換えて語る事にするが、我々は「自由、自由」と言うけれども、本当に「自由」というものを理解していての「自由」なのだろうか。
よく考えてみると、我々が「自由」とは言ってはいるが、それは「管理」され、「制約」されたものの中にあっての「自由」でしかない。
試しに言うと、「行動の自由」というけれども、地球上とか空気がある所とか、また食べ物を撤収できる、という管理下や制約下における以外の「自由」はありえない。
となると、「自由」というのは、言葉だけが独り歩きしていることになり、それに我々は追い立てられているという事になる。こんな具合だから、血脈を保とうとかして、外国の人に借り腹して子供を産んでもらうということまでする。
このように、我々がいう「自由」というものは、その実は「管理」され「制約」されたものである。
こうした「管理、制約」された中にではあるけれども、真に「自由」になれることが出来る。それは「信仰の世界」においてである。
この「信仰の世界」、「宗教の世界」では、直感的に「自由」になれるものであって、簡単になれるものでもない。
このために、常に「良い思い」を保ち、「善い行い」を心掛けていかなければならない。