青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

原罪

2009年06月05日 | 短歌に政治や社会
釈放の菅家さんが会見「警察と検察、絶対に許せない」(読売新聞) - goo ニュース


この人の言葉、非常に異常だ。まともな、人間らしくないー。
長い刑務所暮らしのせいかもしれないが、それにしても異常すぎる。

二つの点で、異常である。
一つは、犠牲者、被害者の幼児に対する哀悼の声が一言も無い。
二つには、警察や検察への非難ばかりになっていて、それではまるで「真犯人が捕まるはずが無い」と真犯人寄りな発言をしていることである。

私はキリスト教徒、すなわちクリスチャンではないが、「原罪」という言葉が聖書で用いられていることを知っている。また、その意味も、知っている。
この「原罪」を、今回の「冤罪事件」に当てはめてみると、この人が「腹が大きく、肝が据わった」人ならば、「無実だけど、その罪を私が引き受けましょう」と受け止めるべきであった。
そうしてこの「足立て事件」の罪一切という「原罪」を背負ったなら、被害者の幼児も、その家族らも、安らかに安穏としたその後を暮らすことができただろう。
しかし「無実だ、冤罪だ」と叫び続けたために、被害者関係の方々の心境は休まらない。
キリストがすべての人々の「原罪」を背負って貼り付けになり処刑されたという、心の世界観とは、大きな隔たりがある。

私たちには、人それぞれに人生がある。
その個人個人の人生は、いうなれば他の人々が背負うべきだった「原罪」ともいうべきものを、個人が背負うことになっているともいえる。

たとえば私は障害者だが、こういう障害を他の人が背負うことなく、他の人が「原罪」として背負う障害を私が背負ったものといえ、それをそのまま受け止めている。
それはこうした障害を、私が背負わないでいたら、子供や孫たちが背負うことになったら・・・と、そう思うとこれて「よかったのだ」と思うからである。

先の大戦で、わが国は二つの原爆投下を受けた。
しかし当時はわが国でも核開発が進められており、完成していたら中国や米国で使われていたことになる。
だが一歩先を越されて、我が国に投下された。
このことで非難したり保障を求めたりしているが、まかり間違っていたら私たちは加害者の立場にいたことになる。
だが私たちは、その代わりのように身代わりとして「原罪」を受け止めたといえる。それを恨むとか、訴訟するとか、賠償を求めるとすれば、うれしいだろうか、喜ばしいことだろうか。

私たちの人生は、別な考え方でいえば、望み通りに行かないのは、他の人の「原罪」を変わりに背負った人生とも言えるからである。そして自分が背負うべきだった人生は、他の人が変わって背負ってくれている。
このように看做す時、自分の人生が、思い通りにならないということに気が付く。
この思い通りにならないということは、無理が通らないということでもあり、勝手に行かないのである。

今回のこの事件に関することは、「原罪」を背負うべき者が不在になってしまっている。
誰かが「原罪」を、「原罪」として受け止めなければならない。しかしみな、「自分がかわいい」から受けない。
首相のように、「でもかもには答えられない」ということになってしまっている。それは、いかなる事態にも対処しようとする責任感を持たない、という無責任からくる。

★ 望むとも ままにはならぬ 人の世は
       原罪分かち 背負い合うゆえ    2009/6/5

コメント
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