何もそんなに「があ、があ」と喚き立てなくても、心配することはない。
貴女のような「敵基地先制攻撃」論者の、敵基地先制攻撃態勢は、国民の間にちゃんと整っている。
「党委員長」を辞任したければ、どうぞ・・・・ご勝手に。
私たちが生まれ、そして生存している世界は、私たちの思うようにはならない。なぜ思うようにならないかというと、そこには歴然とした、私たちの手が及ばない「定まり」があるからだといえる。
これを私たち人間の言葉で言い表すなら、「法」ともいい、「真理」とも言う。
この「法」と「真理」は、我々の住む全ての世界に充満している。宇宙全体に、自然世界全体に、行き渡っている。
その様は最大の大から、微小までや、高温状態から極寒まで、生命の発生と死滅までと、普遍性ある実力を持っている。
そしてこれら「真理の要素」となるものには、共通するある特徴の基に成り立っている。言うなれば、それは「真理の源泉」とも言うべきものである。
「真理の源泉」とはどういうものかというと、「耐える」ということである。
「耐える」というは、「偉くなるため」にとか、「メダルを取るために」というような、そういう「耐える」ということではない。
「真理の源泉」における「耐える」とは、結論から言うと「後始末」をし、「整理整頓」を嫌がらずにすることに「耐える」ということをいう。
一般に私たちは、欲望のままに「したいことをし、言いたいことを言う」といった生き方をしている。そしてその「したこと、言ったこと」の後片付けをせず、また整理整頓もせずに、次の欲望に向かってしまう。このために物事が乱雑になり、こんがらがってしまい、いろんな問題が持ち上がって悩まされることになる。
それゆえに、一つの事柄の後始末や整理整頓を終えない限り、次のものに手を出すことを「耐え」なくてはならないのである。
これは私たちの世界を形作る「素粒子」の世界で、根本理念として成り立っている。昨年度のノーベル化学賞の対象になった、「自発的対象性の破れ」は、個々の素粒子が「耐えに耐え」た末に、この現象が起きる。「耐え」がなければ、こうした現象が起こることはない。
そしてさらに、次に続く連続する現象も、一つ発生した現象の後始末が付けられ、整理整頓が付けられた後にこそ、続けて起こることができる。
こうしたことによって、生命発生もし、精神現象も起きる事になる。
「真理の源泉」が、このように「耐える」ということ、即ち「忍耐」であるなら、私たちがこうした世界に生きるには、この「真理の源泉である耐える」という事に従っていかなければならない。
だが我々人間は、反発する、逆らう、嫌う、恨む、泣く、苦しむ、人のせいにしたりする。そして人同士が争ったり、誤魔化しあったり、恨みあったりするのが得意である。