青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

続(下)、原罪

2009年06月09日 | 人生設計
米国で新大統領が就任してから、まもなく半年になろうとしている。
色々と新政策を打ち出しているが、その中に際立っているのが「核無き世界」という新政策であろう
核兵器の削減縮小に向けた、世界秩序を構築しようという構想は、今の人類にとって喜ばしいことといわなければならない。

ところが我が国の政治家や官僚、企業などにとっては、これがゆえに困惑している。
なぜかというと、我が国の安全保障は、米国の「核の傘」によって組み入れられ、守られていたからだ。このことは以前から言われ、今回元外務事務次官たちの証言で明らかになった「核持ち込み密約」でも、明らかなことである。
我が国は人類最初の被爆国であり、尤も平和を願う立場にありながら、政策責任者たちは、安全保障の名を借りて後方に米国の核戦力を保持している。
「戦争放棄」を歌い上げ、真摯に平和を望む法の声を上げた「日本国憲法」は、形もない。

今日のニュースでは、「原爆訴訟判決」に対して、国が上訴を断念したという記事が出た。それとともに、次期主力戦闘機選考の記事も載っている。
これでは上辺だけ訴訟を取り下げ、周辺国へのにらみを利かせる軍事力という「原罪」は温存して残したままになっている。

それはそうと、私たち個人の内部でも、建前論としての言動と行為とは、とても矛盾している。口で言うことと、行いが合わない。
言う事と行いが合わないのは、「原罪」が幅を利かせていることにある。
この「幅を利かせている原罪」を葬り去らなければならないのだが、困ったことに私たちはこの「幅を利かせる原罪」が、ことのほか可愛く、愛しい。
だから、なかなか離し、捨て切れない。

そうして「離し、捨て切れない」のも、いいかもしれない。
「離し、捨てきれず」に、悩み、無き、苦しみ、泣き、もだえて、貼り付けにあって「復活」していく。


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