「原罪」という言葉は、文字通り「罪となる元」のことを言う。
これをちょっと次元や系列を取り違えると、「魂、霊」ということになる。そして「悪霊、背後霊、先祖霊、憑依霊、水子霊、動物霊」とか、あるいはこれらの「魂の呪い」ということを意味していると受け取られがちになっている。
これが一般的な「宗教」に、なっている。
だがこの「原罪」の意味するところは、そうではない。
私たちや生物だけでなく、この世に存在するもの全ては、それぞれがそれぞれの存在する情報の基に存在している。生物でいえば「遺伝情報」である。
この「遺伝情報」は、宇宙発生時期から、今の現在までの情報が、それぞれの生命体に宿っている。それが、良きにつけ悪しきにつけ「原罪」なのである。
一方この生命体には、私たち人間の場合、「精神」という「心」を持っている。この「生命体である肉体」と、「精神体である心」は、一つの肉体の中に宿りながら、なかなか一体になれない。融合できない。
このために「原罪」というものは、生命体という肉体にも、精神体という心にもありながら、肉体と心とは別物のようになり、そこのところから、自分の人生が借り物のようになっている。
肉体からして、いつかは「死」という終末を迎えるものなのに、心はこの「死」というものを受け入れたがらないことでもわかる。
それゆえに先に、今の自分の人生は、本当は他の人が背負うべきものを自分が背負うことになっている、とそう述べている。
では「人が背負うべきだった人生」だから、責任を持たずに疎かにしてもよいだろうと思うだろうが、それはならない。
何故かというと、今背負っている他の人が背負うべきだった人生であっても、それを立派にやり遂げることによってこそ、その後に、本当の自分が背負うべき人生にめぐり合えるからである。それを宗教では、「悟り」といっている。
普通宗教というと、毛嫌いする方がいられるが、それはこのように「今を真剣に生きて、本当に自分が背負う自分の人生にめぐり合う」という、誠実な心構えでいないことにある。だから「占い、手相、運気」などに頼ってしまう。あるいは「オーム真理教」とかに・・・・
ちなみに聖書には、「キリストの復活」という文がある。
この意味はもうお分かりだろうが、借り物の「原罪」を背負っていたキリストは、貼り付け処刑され、変わって本当のキリストの人生にめぐり合えたキリストが誕生して、ということである。
これをちょっと次元や系列を取り違えると、「魂、霊」ということになる。そして「悪霊、背後霊、先祖霊、憑依霊、水子霊、動物霊」とか、あるいはこれらの「魂の呪い」ということを意味していると受け取られがちになっている。
これが一般的な「宗教」に、なっている。
だがこの「原罪」の意味するところは、そうではない。
私たちや生物だけでなく、この世に存在するもの全ては、それぞれがそれぞれの存在する情報の基に存在している。生物でいえば「遺伝情報」である。
この「遺伝情報」は、宇宙発生時期から、今の現在までの情報が、それぞれの生命体に宿っている。それが、良きにつけ悪しきにつけ「原罪」なのである。
一方この生命体には、私たち人間の場合、「精神」という「心」を持っている。この「生命体である肉体」と、「精神体である心」は、一つの肉体の中に宿りながら、なかなか一体になれない。融合できない。
このために「原罪」というものは、生命体という肉体にも、精神体という心にもありながら、肉体と心とは別物のようになり、そこのところから、自分の人生が借り物のようになっている。
肉体からして、いつかは「死」という終末を迎えるものなのに、心はこの「死」というものを受け入れたがらないことでもわかる。
それゆえに先に、今の自分の人生は、本当は他の人が背負うべきものを自分が背負うことになっている、とそう述べている。
では「人が背負うべきだった人生」だから、責任を持たずに疎かにしてもよいだろうと思うだろうが、それはならない。
何故かというと、今背負っている他の人が背負うべきだった人生であっても、それを立派にやり遂げることによってこそ、その後に、本当の自分が背負うべき人生にめぐり合えるからである。それを宗教では、「悟り」といっている。
普通宗教というと、毛嫌いする方がいられるが、それはこのように「今を真剣に生きて、本当に自分が背負う自分の人生にめぐり合う」という、誠実な心構えでいないことにある。だから「占い、手相、運気」などに頼ってしまう。あるいは「オーム真理教」とかに・・・・
ちなみに聖書には、「キリストの復活」という文がある。
この意味はもうお分かりだろうが、借り物の「原罪」を背負っていたキリストは、貼り付け処刑され、変わって本当のキリストの人生にめぐり合えたキリストが誕生して、ということである。