普通の我々の思いというものは、「他からの働きかけ」ばかりを期待している。
「他からの働きかけ」が当たり前とか、当然のことと思っている。
であるから、「他への働きかけ」をしようとはしない。
しようとするのは「自助努力」だけである。
その努力は、「学力を得る、賞を得る、地位を得る、金銭を得る、財産を得る、血脈を得る」などを得るためにするものであって、「他への働きかけ」という「愛、慈しみ、労わり、ねぎらい、感謝、報恩」というものを持たない。
こうした「愛、慈しみ、労わり、ねぎらい、感謝、報恩」というものを持たないで「他からの働きかけ」を期待する事は、それが思うようにままならないならば「愚痴」になり「恨み」になり、更には「嫉妬」にもなって他との関わりが争いへと発展していく。
「他への働きかけ」の事を、能動性とも言う。
これに対して「他からの働きかけ」の事を受動性と言う。
我々人間が、その生命的発生としての価値は、この能動性の「他への働きかけ」がなされるかどうかという事にあり、且つそこに生きていく値打があり、存在性があると言わなければならない。
タンに「受動性的な他からの働きかけ」ばかりに生きようとするようでは、万物の霊長類としての値を持ちえない。
この「能動性的他への働きかけ」を教えるものを、「宗教」と言う。
如何に「宗教」と名乗るものであっても、このように「能動的他への働きかけ」を教えないものならば、それは宗教で背は無い。