宗教は、普通一般的には「冠婚葬祭」に重用される。
その他においては、「祈り」という事を用いて「願い、望み」を叶えてもらおうとしたり、または「災い、災難」から逃れようとしている。
そうした望みが達せられるようにと、「お賽銭、お布施」などを送り、まるでその金額の大小如何によって、見返りがあるかないかが決まるような事がマスコミなどで報じられている。
宗教とは、こういうような「代償を求める」ようなことではない。そういう「代償を求め」ようとし、「支払う」というような類いのものならば、そういう宗教は紛いものである。
では真の宗教とはどういうものかというと、この本題である「他力本願」にこそある。
即ち「他への働きかけ」という事にあり、この事がそもそも「人はなぜ生まれてきたか、なぜ生きなければならないか」という事への答えであり、且つ解答なのである。
我々は兎角「他からの働きかけ」を受けたがる。
この「他からの働きかけ」は、唯では受けることはできない。
「他からの働きかけ」を受けるには、こちらも何らかの「他への働きかけ」を成さなければならない。「他への働きかけ」を成すとなれば、それがいい加減なものならば、必然的に受け取り入れる「他からの働きかけ」も、いい加減なものでしかなくなる。
この時の我々人間はどうするかというと、「腹を立てる、恨む、報復復讐を企む」などを胸に思う。それを感じた相手も、またそうした思いにとらわれ、際限も無くなってくる。
我々が行うべき「他への働きかけ」は、こうした意味で人として正しい行いとしての「他への働きかけ」で無い事には、我が身が受ける「他からの働きかけ」が嬉しい「他からの働きかけ」とはならない事になる。
「他力本願」の心は、こういう我が身が受け取れる「他からの働きかけ」が、こちらの「他への働きかけ」次第なのを知る事、それは取りも直さずに「自力という自分の行いそのものが「他力」となってくるという事を意味している。
よって、
「人が、何故この世に産まれてきたのか」に答える答えは、「他への働きかけに生きるため」である。
「人は、何のために生きるか」に答える答えは、「他への働きかけに生きるために」である。
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「他力本が」については、さらに奥深く受け入れる必要があるが、ここではこのように述べさせていただきます。