妓のものは、図書館で借りてきた本に書かれていたものである。
仏教説話な次のようなものがある。
昔あるところで 晩餐会が開かれた。招待された人たちは、長いテーブルに向かい合って座っている。テーブルには山海の珍味が並べられている。どれもこれも、いままで食べたことのないようなご馳走ばかりである。 ところが、箸がテーブルの向こう側に届くほどの長いものであった。そして、ご馳走はその筈でなければ食べることができない。手づかみで食べようとすると消えてしまうのだ。 みんなは必死になって長い箸を使おうとするが、食べ物をつかむことはできても、それを口まで運ぶことができない。 そのとき、ある人が「自分では食べられないが、向かい側の人には食べさせることができるのではないか」と考えた。やってみると、箸はちょうど相手の口に届く長さだった。ご馳走を食べることができた人は喜んだ。そして、今度は自分がその人に食べさせたのである。こうして、みんなは心ゆくまでご馳走を堪能することができた。
という話である。
この説話から、人間はお互いを思いやり、労わり、感謝の心を持って感謝し合っていくことの大切さが述べられている。
昔と違って今日の人間は、食事を戴くときに「いただきます、ご馳走さま」も言わない。
それだけでなく姿勢も悪いし、行儀も悪い。
子供たちは学校では姿勢よくし行儀よくして食事のあいさつをしているようだが、家ではまるっきりしない。
それというのも親たち大人たちがちゃんとしていないから、それを見習っておかのいなしになっている。
こうした事はテレビなどの場面でもみられ、これが大人にも子供にも悪影響を与えている。
テレビやマスコミには、社会を良くしたいという気概が無くなっている。
何事も金になれば、どんなことをしてもいいという風習が蔓延しているから、いくら教育改革とか道徳教育といっても手に負えない。
この説話のお互いさまという所に宗教の心があり、信仰の心がある。
宗教や信仰は、学問ではなく、心の教育というべきものである。この心の教育が出来上がらないと、人間は身勝手になり我儘になって争いを起こしていく。