読書日和

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「手のひらの京」綿矢りさ

2016-10-15 23:05:01 | 小説


今回ご紹介するのは「手のひらの京」(著:綿矢りさ)です。

-----内容-----
なんて小さな都だろう。
私はここが好きだけど、いつか旅立つときが来るーー。
おっとりした長女・綾香。
恋愛に生きる次女・羽依。
自ら人生を切り拓く三女・凜。
生まれ育った土地、家族への尽きせぬ思い。
かけがいのない日常に宿るしあわせ。
京都の春夏秋冬があざやかに息づく綿矢版『細雪』。

-----感想-----
先週末立ち寄った書店で綿矢りささんの新作小説が発売されているのを見かけ迷わず購入しました。
綿矢さんは私が小説好きとなるきっかけとなった作家さんで、「蹴りたい背中」で初めて作品を読んで以来ずっとファンです。

「京都の空はどうも柔らかい。頭上に広がる淡い水色に、綿菓子をちぎった雲の一片がふわふわと浮いている。鴨川から眺める空は清々しくも甘い気配に満ちている。」
この出だしが良かったです。
水色の柔らかく清々しい空の様子が脳裏に浮かんできました。
綿矢さんは京都出身ですが作品で京都が舞台になるのは珍しく、今回が初めてのようです。
京都弁の会話がかなり良いです。
また冒頭から表現力の豊かな文章が続き、文章を丁寧に吟味しながら読みたくなります。
この文章の魅力はやはり芥川賞作家さんだと思います。

物語の始まりの季節は春と初夏の間、4月下旬頃で、語り手は奥沢家三姉妹の三女、凜。
凜には長女の綾香、次女の羽依(うい)の二人の姉がいて、綾香のことは「姉やん」、羽依のことは「羽依ちゃん」と呼んでいます。

凜が京都府立植物園の洋風庭園に咲く薔薇に思いを馳せた時、風光明媚という言葉が出てきました。
「自然の眺めが清らかで美しい」という意味で、この言葉を見たのは久しぶりでした。

「どこまでも広がる空は柔らかさを残したまま夕方を迎え、玉ねぎを炒めたキツネ色に変化している。デミグラスソース色へと変わってゆくさまは自転車に乗りながら眺めよう、と決めて凜は立ち上がった。」
この空の色の描写が印象的でした。
たしかに夕方を迎えるとキツネ色に変化し、段々と赤みを増していきます。

夕方の寂しさについて、「逢魔がときとも呼ばれる夕方の心細さ」と表現されていました。
風光明媚に続き古風な表現が出てきました。
作品全体でこういった表現がよく出てきて、最初の数ページを読んだ時点では文章が醸し出す雰囲気からもしかして昭和が舞台かと思いました。
実際には平成の京都を舞台にしています。

奥沢家の父、蛍(ほたる)が定年を迎えた時、母も家族の前で"私も主婦として定年を迎えます"と宣言し、食事を作らなくなりました。
「朝と昼ご飯は各自で、お夕飯はあんたらで作りなさい」と言われた三姉妹はそれ以来、当番制で夕食を作っています。

凜は大学院で生物学を研究する二回生、一歳上の羽依はこの春働き始めた新入社員です。
羽依は前原智也という、新人研修の時に指導役として研修に参加した30代の上司と付き合っています。
羽依は前原が送ってきたモテる男きどりのスカしたメールに激怒して、凜の部屋に来てメールを見せて怒りを露にしていました。
前原に負けず劣らず羽依のほうも自分のモテに対して自信があり、凜によると「小中高、大と、学生時代あますところなく男性から評判が良かった」とのことです。
そんな羽依は前原に対し、表面上は気のあるそぶりを見せておき、向こうが安心しきった頃に捨ててやろうという決意を固めます。
一方の凜のほうは奥沢家に住むことについて、「ここにずっと住み続けたら、私は三十を過ぎても、四十を過ぎても"子ども部屋"にいることになる。飛び出すきっかけは、自分で作るしかない。」と、胸の中で密かに家を出る決意をしていました。

最初の語り手が凜で次に羽依、その次に綾香になり、三姉妹で順番に語り手が変わっていきます。
かつて「夢を与える」を書いた時は不自然さのあった三人称を綺麗に使いこなしていて、綿矢さんの成長を感じました。
京都言葉と時折出る古風な表現が作品全体に和の雰囲気を出しています。

羽依は須田電子という会社に務めています。
ある日新入社員達が琵琶湖畔の近江舞子でバーベキューをやることになり、羽依も迎えに来たワゴンに乗って出かけていきます。
新入社員のみのイベントのはずがなぜか前原も呼ばれて来ていて、羽依は「当然のように参加して微妙に先輩風を吹かせる」と胸中で述懐していました。
羽依の恋愛の視点はかなり鋭く、周りの人の計算が見えています。
このバーベキューが行われる間、前原に気がある子の立ち居振舞いや、前原の羽依を嫉妬させるための行動などを見ながら羽依が胸中でしていた分析はぞっとするものがありました。

綾香は31歳で図書館の職員をしています。
27歳のときに大学生のときから付き合っていた人と別れて以来出会いがない綾香はこの頃、早く子供が欲しくて焦っています。
綾香が語り手の物語になった時、まさかここまで焦っているとはと驚かされました。
図書館からの帰り道、「今日は祇園祭の宵山の二日目だ。」とありました。
森見登美彦さんの作品で頻繁に登場する祇園祭宵山、綿矢さんの作品でこの名称が見られるとは感慨深いです。

綾香が一番最近に祇園祭宵山に出かけた一昨年、結婚について焦る気持ちが現れた時の描写が印象的でした。
「祭りを眺め終わり帰る直前に、仲間うちの二人が近いうちの結婚を発表し、綾香は歓声を上げて祝福したが、初めて焦る気持ちが小さいウサギが片耳をぴょこっと立ち上げたみたいに姿を現した。」
「小さいウサギが片耳をぴょこっと立ち上げたみたいに」が良い表現で綿矢さんらしいなと思います。

綾香はふらっと祇園祭の様子を見に行き、四条通を歩いていると中学時代の友達の苗場ちゃんと、苗場ちゃんの友達の樋口くんに声を掛けられます。
人の多さに圧倒されていたのと結婚のことを考えて憂鬱になっていたのとで祭りの雰囲気を楽しめていなかった綾香ですが、二人に声を掛けられたことで一気に心境が変わります。
「彼女らと話した途端、周りのざわめきが、祭囃子が、急に鮮やかさを取り戻して、喉がからからのときにレモン入り炭酸水を飲んだみたいに世界が広がった。」
綿矢さんらしい比喩表現で、たしかに爽やかに世界が広がります。
三人で料理屋に行き料理を頼む時、「水菜の炊いたん」「じゃこの炊いたん」というメニューが出てきました。
炊いたんは初めて聞くもので、どんな料理か調べてみたら京言葉で意味は「煮た物」とありました。
さらに「口にのぼせる」という表現があり、これも初めて聞く表現なので調べてみたら「取り上げて公の場に出す」とあり、話題に出すという意味のようです。
この言葉も京都ではわりと使われているのかも知れません。

また、「かそけき笑顔」という言葉がありました。
かそけきは昨年レビューを書いた「あの家に暮らす四人の女」(著:三浦しをん)にも出てきた言葉で、幽けきと書き、今にも消えてしまいそうなほど薄い、淡い、あるいは仄かな様子を表しています。
ちなみに「あの家に暮らす四人の女」は「ざんねんな女たちの現代版『細雪』」と紹介され、「手のひらの京」は「綿矢版『細雪』」と紹介され、どちらも『細雪』(著:谷崎潤一郎)の現代版と紹介されているのが興味深いです。
私は「○○版△△」という表現があまり好きではなく、綿矢さんの「手のひらの京」も「綿矢版『細雪』」とされてしまうのはどうかと思ったのですが、これは『細雪』という作品がそれだけ名前を出せば大抵の人が知っている名作ということであるため、考えを改めることにしました。

凜は熱意のある研究姿勢が認められ、研究室で師事している教授から東京にある大手食品メーカーの研究職に推薦してもらうことになります。
喜ぶ凛ですが、京都を出るのを親に話すのには覚悟が要るようです。
「正直、気軽に出せる話題ではないとなんとなく感じていた。一つの結界を破るぐらいの覚悟が要る」とありました。

羽依は会社の同僚女子達から「いけず」の攻撃に遭っています。
”京都の伝統芸能「いけず」”とあり、どんなものなのか説明がありました。
「ほとんど無視に近い反応の薄さや含み笑い、数人でのターゲットをちらちら見ながらの内緒話など悪意のほのめかしのあと、聞こえてないようで間違いなく聞こえるくらいの距離で、ターゲットの背中に向かって、簡潔ながら激烈な嫌味を浴びせる「聞こえよがしのいけず」の技術は、熟練者ともなると芸術的なほど鮮やかにターゲットを傷つける。」とありました。

いけず攻撃に遭う羽依を梅川という同期の男性が気遣ってくれます。
梅川は近江舞子でのバーベキューの時に車を出してくれて羽依の家の前にも迎えに来てくれた人であり、言動から羽依のことが好きなようです。
攻撃に晒される羽依ですが元々やられっ放しで黙っているような性格ではなく、「かわいそうだね?」の樹理恵を彷彿とさせる凄まじい展開が待っていました。

「私、女の人から嫌われるオーラでも出てるんかなぁ。もっと仲良くやっていきたいのに、もめることが多い。同性の友だちも少ないし」と綾香に悩む心を打ち明けると、綾香は次のように慰めていました。
「私ら三姉妹やけど仲良うやってるやん。男とか女とか関係なく、羽依ちゃんの中身を好きになってくれる人と仲良くなったらええ」
「そやな」
「まあ、無理しいひん程度にがんばったら」
「そうする」
この綾香と羽依の会話は良いなと思いました。
普段はおっとりとした綾香の姉らしさが垣間見える一幕でした。

羽依が会社の飲み会で三姉妹のことを聞かれ、”一番上の姉が31歳でおっとりしてます”と答えたら、宮尾俊樹という39歳の営業部で働く男が”ぜひ一度お姉さんにお会いしたい”と熱烈に言ってきました。
このことを冗談半分で綾香に伝えるとなんと「宮尾さんという人と会ってみるわ」という返事が返ってきます。
結婚に焦る綾香が思い切った行動に出ました。

宮尾との初デートから帰ってきた夜、綾香はだいぶ気疲れしていました。
そんな綾香の部屋にお風呂が空いたことを伝えに来た凛に、綾香は気疲れした初デートのことを話します。
ただ時間が深夜1時になったことや凜を戸惑わせるようなことを言っていたことに気付いた綾香は姉らしさを取り戻し、会話を切り上げます。
その時の綾香の心境が印象的でした。

「当たり前だけど、今日会ったばかりの宮尾さんとの関係性より、子どものころからずっと可愛がってきた妹の気持ちの方が大切だ。」

当たり前だけどとあり、綾香が凜を大切に思っているのがよく分かりました。
ただこれは他の人にとっては当たり前ではないかも知れません。
少なくとも次女の羽依は同じ状況になれば迷わず男性との関係性を重視して突っ走ることが予想されます。
この「当たり前」は綾香にとってはそうですが他の人にとっては違うかも知れないという、作品全体を通してかなり印象的な言葉の使い方でした。

凜が東京で就職したいことを伝えると父も母も猛反対します。
凜は京都や大阪にも同じような良い会社があるじゃないかと勧められて言葉に詰まります。
頑張って東京行きの理由を付けていた凜ですが実は「一度京都から遠く離れた地に行きたい」というのが東京で就職したい一番の理由のため、「東京に行きたいだけではないのか」と指摘されると苦しくなります。

凜が京都に思いを馳せる中で、次のように述懐していました。
なんて小さな都だろう。まるで川に浮いていたのを手のひらでそっと掬いあげたかのような、低い山々に囲まれた私の京(みやこ)。
これがタイトルの由来だと思いました。
凜は京都が大好きですが、山の向こうにまだまだ日本が続いていることを実感するために、一度京都から離れたいと考えています。
綿矢さんは三姉妹の中で特に凜に自分の考えを反映させたらしいので、凜のこの思いは綿矢さん自身の思いなのかも知れないと思いました。

「戦慄する」と「総毛立った」という二つの表現が出てきたのを見て、思い出されることがありました。
P62 長く近くで暮らしていると、かつて合戦場であり、死体置き場であり、処刑場であった歴史を、ふとした瞬間に肌で感じ、戦慄する。
P205 ふと通り前の標識を見たら"行幸通り"とあり、昔見た古い夢を思い出して総毛立った。
「戦慄した」の後、終盤で「総毛立った」という言葉が出てきたのを見て、私は第130回芥川賞の「蛇にピアス」のほうの選評が思い浮かびました。
芥川賞を受賞した綿矢りささんの「蹴りたい背中」が物凄く良い作品で衝撃を受け、選考委員達の選評が知りたくなった私は文藝春秋を買い選評を読んでいましたが、「蛇にピアス」のほうの選評もたくさん目にしました。
その中で「戦慄という言葉が二回も出てくる」と選考委員の誰かが苦言を呈していたのが印象に残っています。
この「戦慄する」「総毛立った」という表現の使い分けを見て、綿矢さんはもしかしたら第130回芥川賞の選評のことを覚えているのではとも思いました。
そんなことが思い出される作品でした。

物語の後半、羽依は同僚女子達の「いけず」攻撃との戦い以外にも、振った男がストーカー化して執念深く粘着してくる問題がありました。
「私の好きな人はいつも一人だけ。あんたなんかだいぶ前に忘れてたわ。過去の人は黙ってて」
羽依のこの言葉は格好良かったです。
ただし相手の執念深さは尋常ではなく、かなり危険な目に遭わせられます。
そんな羽依の危機に綾香がストーカー男に怒りを露にする場面があり、おっとりしていてもやはり三姉妹の長女なのだと思いました。

羽依はストーカー男をどうするのか、綾香は宮尾と正式にお付き合いするようになるのか、そして凜の進路はどうなるのか、三姉妹それぞれがどんな道を歩むのかとても気になる終盤でした。
私的に綿矢さんの歴代の作品では「蹴りたい背中」と「かわいそうだね?」が二大傑作だったのですが、「手のひらの京」はこの二作品を上回っている気がします。
綿矢さんらしい比喩表現や文章表現力の高さは生かしつつ、それに加えてかつてない物語構成の上手さを感じました。
ぜひ来年の本屋大賞を受賞してほしい作品です。


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「バッテリーⅤ」あさのあつこ

2016-10-15 13:47:27 | 小説


今回ご紹介するのは「バッテリーⅤ」(著:あさのあつこ)です。

-----内容-----
「おれは、おまえの球を捕るためにいるんだ。ずっとそうすると決めたんじゃ」
天才スラッガー門脇のいる横手二中との再試合に向け、動きはじめる巧と豪。
バッテリーはいまだにぎこちないが、豪との関わりを通じて、巧にも変化が表れつつあってーー。
横手の幼なじみバッテリーを描いた、文庫だけの書き下ろし短編「THE OTHER BATTERY」収録。

-----感想-----
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※「バッテリーⅡ」のレビューをご覧になる方はこちらをどうぞ。
※「バッテリーⅢ」のレビューをご覧になる方はこちらをどうぞ。
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冒頭の季節は冬。
二学期末のテストが終わったところから物語が始まるので12月初旬のようです。
永倉豪が原田巧の球を受けています。
ついにこのバッテリーが復活する時が来ました。

そこから時間は流れ、三月になります。
巧はこの頃、豪を掴みあぐねています。
豪が巧の全力で投げた球を受けても笑わなくなっていました。
以前の豪は全力投球の球を受けると満足げにフッと笑みを浮かべていたのですがそれがなくっています。
巧はそれに気が付いていて、「捕ることが苦痛でもあるかのように、口元を固く結んで、表情を崩さない」と胸中で述懐していました。

母の真紀子が高熱で入院し、巧と父の広と祖父の洋三、弟の青波の四人で朝食を食べている時、広が進路のことを巧に聞いてきました。
巧はこういうのを聞かれるのをかなり嫌がっていました。
自分の将来は、自分で決める。自分以外の者に決定権はないはずだ。決めれば、報告する。それまで待っていてほしい。
大人は、いつも性急だ。性急で、無遠慮だ。無遠慮に踏み込んできて、決定権を無視する。

この気持ちは何となく分かります。
まだ分からないものを性急に聞かれるのは嫌な気分になるものです。
ただ巧の場合はかなり素っ気ない対応をしていて、広が会社に行った後洋三が巧を諭していました。
「あまり、人を疎むな」
「もう少し話をしてみろや。親父だけじゃない、もう少し他人と話をしてみろ。おまえが思うとる以上に、おもろいやつは、ぎょうさんおるぞ。」
「バッテリー」シリーズを通して問題となっている"他人を理解しようとしない"巧の性格についてのことがここでも出てきました。

野球部は新キャプテンの野々村が持ち前の寛容さで上手くチームを引っ張り日々練習しています。
ある日、元キャプテンの海音寺一希がグラウンドにやってきます。
横手二中との再試合の日が決まったので伝えに来ました。
三月の最終日曜日に再び戦うことになります。

せっかく豪がキャッチャーとして戻ってきたのですが、今度は巧の調子がおかしくなってしまいます。
投げた球がストライクゾーンを大きく外れてしまい、自分の球をコントロールできなくなることがあります。
今までの巧なら豪がミットを構えた場所にピッタリと投げ込むことができていました。
ただし狙いどおりのコースにびしっと決まることもあり、しかも今までよりもずっと威力のある球になっています。

豪は巧と「友達」の会話をしたいと思っています。
ただしそんな話をしても巧はまともには受け答えてくれませんでした。
「おれは、ただ……たまには、フツーの話をするのもええかなって……女の子じゃなくても、マンガでもドラマでもガッコのことだってええ、別にどうでもいいけど、話してておもしろいみたいな、フツーの話、そういうのもええかなって……」
これに対し、巧は次のように言っていました。
「そういうの友達とやれよ。東谷とか沢口とか、おまえ、いっぱい友達いるだろうが」
巧のこの言葉から、巧は豪を友達と思っていないことが分かりました。
これは結構ショックでした。

豪が次のように考える場面がありました。
「野球さえなかったら、案外、いい友達になれたんじゃないか。もしかして、親友なんてのになれたかもしれない。さっきみたいに、ふざけながら愉快に時を過ごすことだって、できたかもしれない。」
しかしそのすぐ後、巧の嫌な対応を見て次のようにも考えていました。
「友達になんて、絶対なりたくない。なれもしないだろう。傲慢で、わがままで、究極の自己チュウで、一方的に命令されることも管理されることも大嫌いなくせに、平気で他人を振り回す。信じられないくらい嫌なやつだ。」
この豪の葛藤が興味深かったです。
友達になりたいと思う時もあればなりたくないと思う時もあるというのは、巧の性格と立ち居振舞いをよく言い表していると思います。
たまに良い面を見せることもありますが、基本的には傲慢で嫌な奴です。

横手の「レッドチェック」というファミリーレストランで海音寺と瑞垣が会う場面があります。
新田東中と横手二中の再試合はこの二人が準備を進めています。
瑞垣は「横手二中や新田東という学校の存在抜きにして、おれ達の仕切るおれ達の試合をやろうや」と提案していて、海音寺もこれに魅力を感じ、学校の関与無しで試合をやるべく準備を進めていました。
ファミレスで会った後二人が川原で話をしていると、門脇がやってきて合流します。
しかも瑞垣と門脇が喧嘩になります。
以前も瑞垣の発言が原因で喧嘩になったことがありますが今回はその時よりも緊迫した展開になりました。

東谷、沢口、吉貞、巧の四人がバーガーショップでハンバーガーを食べている時、東谷が巧に苦言を呈します。
「原田、おまえ、そういうこと考えたことあるか。豪におまえのキャッチャー以外のこと、許したことあるか。おまえら、野球から離れても一緒にいられるんか。カノジョがどうしたとか、昨日こんなことしたとか、そういうこと話して笑ったりして……そういうのないから、豪は、しんどいんじゃないんか。おまえ、いつも、あいつのこと振り回して……おまえは、すげえよ。すごいと思う。だから好きにやればいい。けど、豪まで連れていくな。引っ張り回すな」
この時の会話の最後、言い過ぎたと思った東谷は「うん、ごめん、原田のこと悪う言う気は、なかったんじゃ」と謝りますが、巧が意外なことを言います。

「いや、たぶん言い過ぎたのはおれだと思う。悪かったな」

巧が謝りました。
他の人に対して謝る巧の姿は初めて見ました。
さらに豪について、次のように言っていました。

「けどな、あんまり豪を過小評価するなよな。あいつは、おれなんかに振り回されて、チームが見えなくなるほど、チャチなやつじゃないぜ」

この言葉は印象的でした。
まず人前で「おれなんかに」などと言う巧は初めて見ました。
さらに豪について凄い奴だと心のなかで思ったことはありますが、それを声に出して他の人に言うのは初めて見ました。
巧が今までとは変わり始めていることが分かりました。

横手二月との試合の日が近付き、段々と春の陽気になってきます。
巧が空を見た時の春についての描写が良かったです。

花曇というのだろうか。薄い雲が、一面に空をおおっている。やはり甘やかな匂いが漂う。春は色と香りの季節なのだ。
桜、桃、チューリップなど、たしかに春は色と香りの季節だなと思います。

知らなくていいのだろうか。
むかつくと言い捨てた豪を、知らなくていいのだろうか。突然に、自分につきつけられた激しい感情を、むかつきを、嫌悪をちゃんと知らなくていいのだろうか。

マウンドから豪にボールを投げながら、巧が豪の気持ちに思いを馳せていました。
今までの巧にはなかった考えです。
一巻からずっと問題になっていた"他人を理解しようとしない"という巧の性格に、ついに変化が現れるようになりました。

門脇と瑞垣が新田東中に来て、巧がバッティングピッチャーをして瑞垣が打席に立つ場面があるのですが、その時に瑞垣がいつものように相手を動揺させるようなことばかり言って場を掻き乱そうとします。
しかしその仕返しとばかりに巧に良いように遊ばれた瑞垣が大激怒。
大荒れの展開となります。
そしてついに瑞垣が巧のことを「姫さん」と呼ぶのをやめ、原田と読んでいました。
もう「姫さん」と呼ぶ余裕はなくなっていました。

その日の帰り道、東谷、沢口、良貞、巧、豪の五人でバーガーショップに寄ります。
そこでは東谷が憧れの海音寺について「おれ、海音寺さんみたいなショートになりたい」と言ったり、良貞が「東谷くんには無理なんじゃない」とからかったりと、他愛もない会話が繰り広げられました。
その様子を見ながら、巧は胸中で次のように思っていました。
「重いなと感じる。こうして、他人といることが、何気ない会話を交わすことが、心を配ってもらうことが重い。ここにこうして座っているより、一人、走っている時間の方が性に合っているとも思う。それでも座っているのは、一人で走っていてはわからないことを知りたかったからだ。」
今までの巧は「一人で走っていてはわからないこと」を知ろうともしていませんでしたが、今は知ろうとしています。
他人の気持ちを考えられるようになった分、人としても野球選手としても成長しています。
間近に迫った横手二中との試合でどんな球を投げるのか、中学野球界一のバッター、門脇を打ち取れるのか、最終巻となる六巻を楽しみにしています。


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