読書日和

お気に入りの小説やマンガをご紹介。
好きな小説は青春もの。
日々のできごとやフォトギャラリーなどもお届けします。

日常の尊さ

2017-02-07 20:50:55 | ウェブ日記


写真は「リラックスとリフレッシュ」の記事と同じく、立春の2月4日、用事があって東京に出掛けた際に丸の内で撮ったものです。
写真右奥がすぐ皇居外苑になっていて、「リラックスとリフレッシュ」の写真はそちらから撮りました。
そして皇居外苑のすぐ手前に公園広場があり、この写真はそこで撮りました。
快晴の日曜日の午後、風もそれほどなく柔らかな日差しでポカポカ陽気になり、公園内では日向ぼっこをしながらくつろいでいる人の姿がちらほらとありました。

この光景を見ていたら、日常の尊さというものが頭をよぎりました。
快晴の日曜日に小さな子供連れの家族が公園で遊んでいるというよくある日常なのですが、案外こういった日常は貴重なものなのだろうと思います。
次の日曜日にもまた同じような日常を過ごせる保障はないからです。

家族の誰かが体調を崩して寝込んでしまう場合もあるでしょうし、地震のような自然災害に遭う場合もあります。
そういったことが起きると写真と同じ日常にはならなくなってしまいます。
家族全員健康で天災にも遭わずいつもの日常を送れているのは尊いことなのだと思います。

なので日常がずっと続くとは限らない以上、今この瞬間の日常を楽しんでおくべきなのだと思います。
よくある日常ほど尊いものとし、大事にしていきたいです。

リラックスとリフレッシュ

2017-02-06 21:00:38 | ウェブ日記


写真は立春の2月4日、用事があって東京に出掛けた際の帰りに丸の内の皇居外苑で撮ったものです。
清々しい青空と高層ビル群の前に松の木が並ぶ皇居外苑ならではの景色に心を惹かれました

私はかつて、「リラックスとリフレッシュは似ているようで違う」というのを聞いたことがあります。
リラックスは音楽を聴いたり日向ぼっこをしたり横になったりと、活発な活動はせずに心も体も休めることを言います。
そしてリフレッシュは活発に歩いたりランニングしたり、スポーツをしたりして、気分を爽快にするために体を動かすことを言います。
どちらも気分を良くするのは同じですが、リフレッシュには「体力を使う」という違いがあります。

その時々によってこの二つを使い分けてあげると良いようです。
例えば疲れている時に「リフレッシュしよう!」とスポーツで体を動かしても疲れているためあまり楽しめず、気分もあまり爽快にはならないです。
疲れている時は「リラックスしよう」と音楽を聴いたり日向ぼっこをしたり、あるいは横になって寝たりして、心と体を両方とも休めてあげたほうが良いです。

この写真を撮った2月4日はまさにそんな日でした。
当初私は久しぶりに皇居外苑を大規模に散歩したいと考えていました。
これはリフレッシュに当てはまると思います。
先週は精神的にかなり疲れた週で、土日はどちらかと言えばリラックスにしたほうが良いかなとも思いましたが、土曜日は天気が快晴の予報で、そんな清々しい快晴の中をゆっくり散歩するのなら大丈夫かなと思いました
ところが前日の金曜日に喉の痛みを感じ、少し寒気もして、どうやら風邪気味になったことに気付きました。

2月4日当日もまだ喉に痛みがあり、幸い咳は出ておらず歩く分にも問題はなかったのですが、二日後から新たな一週間が始まることもあり、ここは慎重に考えました。
リラックスにするか、リフレッシュにするか、決断することになりました。
写真のような清々しい青空の中、場所も皇居外苑という解放感のある場所で気持ち的には大規模に歩きたいと思いました。
しかし無理に歩いて体調が悪化すれば結果的に体力も気分もダウンするだろうと思い、我慢して日向ぼっこをメインにした軽い散歩にしました。
約1時間ほど太陽の光を浴びながらゆっくり歩いたり何枚かの写真を撮ったりしながら過ごしました。
じっくりと太陽の光を浴び、良い日光浴になりました

そしてこの例はリラックスにするかリフレッシュにするか悩む余地がありましたが、本当に身も心も疲れ切っている時は最初からリラックスにすべきです。
この例でなら、歩くのはやめにしてしばらくの間太陽の光を浴びて日向ぼっこしているだけで十分です。
上手くリラックスとリフレッシュを使い分けながら日々を過ごしていきたいと思います

「雪国」川端康成

2017-02-05 17:23:41 | 小説


今回ご紹介するのは「雪国」(著:川端康成)です。

-----内容-----
親譲りの財産で、無為徒食の生活をしている島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。
島村は許婚者の療養費を作るため芸者になったという、駒子の一途な生き方に惹かれながらも、ゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない-。
冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。
川端文学の美質が完全な開花を見せた不朽の名作である。
1968年、ノーベル文学賞受賞対象作品。

-----感想-----
ちょうど季節が冬ということもあり、有名な「雪国」を読んでみました
川端康成さんは1968年にノーベル文学賞を受賞した作家さんで、「雪国」は「伊豆の踊子」などとともにノーベル文学賞の選考対象になった作品とのことです。
何となく「雪国」でノーベル文学賞を受賞したイメージがあるのですが、あくまで受賞したのは川端康成さんという作家で、「雪国」や「伊豆の踊子」などの複数の作品が国際的に高く評価され、ノーベル文学賞受賞になったとのことです。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
第一文目に何度も聞いたことがあるこの文章があり、心がワクワクしました
一つの文章がひとたび目にすればすぐに作品名が出てくるくらい日本中で有名なのは凄いことです。

物語の語り手は島村という東京に住む男。
島村が電車に乗って新潟県に行った時、向かい側の座席に葉子という娘と、その横に横たわる病人と思われる男がいました。
島村は窓の向こうの景色とともに、窓に映る葉子の顔を見ていて、その描写が非常に印象的でした。
一部をご紹介します。
窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。
この場面は凄く良い表現だと思いました。
それまで電車の中の座席全体を見ていたのが、この場面になった途端、辺りが暗くなって電車の窓の向こうの景色と、窓に映る葉子の顔しか見えなくなったような気がしました。
妖艶で神秘的な雰囲気を感じさせる文章になっていました。

島村は駒子という芸者に会いに新潟県に出かけています。
物語の序盤で初めて駒子と会った時の回想があり、その後はいつの間にか月日が流れていたりしながら物語が進んでいきました。
駒子との会話の中でも印象的な表現が出てきました。

鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頬が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮かぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。
鏡の中の雪と女(駒子)の描写が印象的で、葉子の描写と似たものを感じました。

電車の中で葉子を見た次の日、島村は駒子が住んでいる屋敷の中で葉子と再会します。
島村と会話はせず、ちらっと刺すように島村を一目見ただけで通り過ぎていってしまい、再会は終わります。
以降も島村は葉子に遭遇することがあるのですが、葉子は刺すように島村を見るだけで特に何も話さず、毎回刺すように見ているのが気になるところでした。
また、駒子は島村と話す中でなぜか葉子のことに触れようとしません。
駒子と葉子がどんな関係なのかも気になりました。

駒子は時折妙な反応を見せることがあります。
島村が電車の中で葉子とともに目にした病気と思われる男は行男という名前で、駒子とも少なからぬ縁があります。
重病に侵されていて余命幾ばくもなく、ある日東京に帰る島村を駒子が駅まで見送りに来ていた時、葉子が行男の急を知らせに来ました。
容体が急変したから今すぐ会いに行ってくれと言うのですが、駒子は「いやよ」と言って帰ろうとしません。
当初「お客さまを送ってるんだから、私帰れないわ」と言っていたのですが、さすがにこれは表面上の理由で本心ではないだろうと思いました。
その後「いや、人の死ぬの見るなんか」とも言っていて、こちらは本心のような気がしました。
少なからぬ縁のある人の急に際しても、その場に駆け付けられないくらい人の死への恐ろしさがあるのかなと思います。

直前の場面から一年も月日が流れている場面がありました。
この流れが唐突だなと思いました。
直前の物語から続いているようでいて、読んでいくと実は一年も経っていたのが印象的でした。

温泉宿の番頭の描写で、「揉手しながらしつっこく客を引くが、いかにも誠意のない物乞いじみた人相が現れていた」とありました。
「いかにも誠意のない」が特に印象的でした。
私も上辺だけのペラッペラの言葉を使う人に良い印象は持たないです。

島村と駒子は会話が噛み合っていないことがよくあります。
「Aはどうだい?」「Bはこうよ」のように、島村が振った話題に対して、全然違う話題の答えが返ってくるようなことがありました。
しかしそれでも問題なく会話が進んでいき、読んでいるほうも何となく会話の流れが掴めるのが面白いです。
「あんた私の気持ち分かる?」という言葉が一つの場面の中で二回出てきていたのも印象に残りました。
駒子は島村に気持ちを分かってほしそうです。

また、駒子が島村を「嘘つき」と立て続けになじる場面があります。
「あんた、なにしに来た。こんなところへなんしに来た」
「君に会いに来た」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い」

「あんた2月の14日はどうしたの。嘘つき。ずいぶん待ったわよ。もうあんたの言うことなんか、あてにしないからいい」
「それごらんなさい。言えやしないじゃないの。嘘ばっかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りゃしない」
一連の「嘘つき」連発で島村をなじっていますが、しかし会えて嬉しそうな雰囲気もあったのが印象的でした。
言葉と本心が一致していない時は、受け手が本心を察知しない場合言葉のほうを真に受けることになるので、関係がこじれるかと思います。

駒子は破滅的に見えるような行動をすることがあります。
酔っぱらって管を巻き、やがて酔いが醒めて「お休みなさいね」と島村のもとを去ったかと思ったらまたお酒を持って戻ってきて酔っぱらったりしていました。
島村の冷たく見えるほどの冷静さによって破滅にはならずに済んでいるように見えました。
ただし駒子がそんな行動に走るのは島村という存在があるからのようにも見え、島村のせいで破滅的な行動になっているとも言えます。
このこじれ具合は電車の窓の向こうの景色と葉子の顔の表現に見られる素晴らしい表現力とともに、「雪国」の特徴だなと思います。


ノーベル文学賞受賞の一角を担った作品ということでどれほど凄い作品なのかと期待した状態で読み始めました。
その期待に応えてくれたのが冒頭で出てきた電車の窓の向こうの景色と葉子の顔の表現で、これだけでもこの作品を読んで良かったと思いました。
そしてこういった表現力が海外で高く評価されノーベル文学賞受賞につながったというのが嬉しいです


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ブログ10周年

2017-02-04 19:40:03 | メモリアル


2007年の2月にブログを始めたので、今年の2月はブログ10周年の節目です。
最初の頃からの付き合いの方も最近からの付き合いの方も、よき交流をありがとうございます

10年は長いようであっという間に過ぎていった気もします。
10年前にブログを始めた時のことはよく覚えています。
大阪に住んでいた頃の終わりが近付いてきた頃にこのブログを始めました。

ブログを始めた頃は「早くブログ界きっての大ブロガーになりたい」などと思ったこともありました。
10年続けてみて、小説の感想記事や街や景色のフォトギャラリー、日々の思いを綴ることやグルメ記事などでは、そのような大ブロガーにはそうそうなれないということをよく分かっています。
かなり早い段階で「そんな大それた野望に惹かれるより、自分自身の書きたいことをマイペースに書いていこう」という気持ちになりました。
この気持ちになったことによって楽しみながら記事を書くことができ、10年続けることができたのではと思います。

たまに「早く大ブロガーになりたい」と気合を入れているブロガーさんを目にすると、ブログを始めた頃の私の心境を思い出します。
大ブロガーは、結果としてなっていたという形なら良いと思うのですが、無理に狙いに行くのはあまりお勧めできないです。
例えば戦国時代さながらに「天下布武」や「風林火山」などの旗を心の中に掲げ、ブログの世界の天下統一を果たして天下人になろうとして連日激闘を繰り広げたりしたら、凄く疲れてしまうのではないでしょうか。
とにかくアクセスを稼ぐことのみが目的化してしまい、もはやブログを楽しんでいるのとは程遠い状態だと思います。
ブログだけでなくツイッターやフェイスブックなど、個人で情報発信できるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は楽しんでやるのが一番良いと思います

というわけで、10周年以降もマイペースに記事を書いていこうと思います。
そしてブログやツイッター、フェイスブックなどを書かれている方はぜひ自分のペースで楽しみながらやっていきましょう

辛い日々との向き合い

2017-02-01 21:23:59 | ウェブ日記
ツイッターでは日曜日の夜からつぶやいているのですが、今週はとても辛い日々です
厄介な業務が来ていて、先週末の時点で来週は辛い日々になるなと覚悟していました。

ツイッターでは主に、辛い一週間をどう乗り切るか、気持ちを整理しながら作戦を立てていました。
まず日曜日の時点では辛い一週間にかなり不安を感じていました。
そして不安を受け止めた上でその一週間をどう乗り切るかを考えた時、一週間を月曜から金曜まで見渡すようにするのは、気が滅入ってしまって無理だと思いました
なので目の前の一日だけを見ていくようにしようと思い、まず月曜日を一日乗り切れればそれで良いと考えるようにして今週に臨むことにしました。

「今日は今日行って、できることをやればそれでいい。明日はまた明日行って、できることをやればそれでいい。その日なりにできることをやれば、それでいい」の気持ちで臨もうと思いました。
能力の限界を超えることを無理にやろうとすれば自分が潰れてしまうので、そこに気を付けようと思いました。

また、「もし駄目だったとしても人生の何もかもが終わるわけではない、命を落とすわけではない」という気持ちも大事なのだと思いました。
何もかも終わりだと思ってしまうと自分自身が追い詰められます。
私は一度それで深刻な目に遭ったことがあるので肝に命じておこうと思いました。
自分を守れるのは自分しかいません。

無理には頑張らないようにし、さりとて何もしないわけにはいかないので、できる範囲のことはします。
気張らず無理に頑張らず、なるようになるさの境地で行くことを意識しました。

そして始まった今週ですが、これまでのところ当初予想したような激しい残業にはならずに済んでいます。
今週はブログの更新も無理なのではと思っていましたが昨日、今日と記事を書くことができました。
ただし、精神的には酷く疲れる日々になっています。
今日は特に、帰路に着く時に神経が酷く疲れてヘトヘトになっているのを実感しました。
明らかに精神力の勝負になっています。

それでも今週も週半ばの水曜日が終わるところまで来ました。
残る二日のうち、まずは明日一日乗り切れればそれで良いと考え臨むことにします。
辛い日々との向き合いはどんどん神経が疲れていくので、毎日のほっと一息つける時間を大事にして気持ちをリラックスさせながら、精神的負担を減らすためにも気張らず肩の力を抜くことを意識して向き合っていきたいです。